| 1、ういろううり外郎売との出会い
九代目市川団十郎の別荘跡が我が家の近くにある。団十郎山公園にその名を残している。二代目団十郎が歌舞伎十八番に早口言葉のせりふが売りの「外郎売」がある。演劇やアナウンサーを目指す人は、この長い早口言葉の文を覚えるのだと聞いていた。このところ物忘れのひどくなっている自分には、全文覚えることはできるだろうかと、自分をからかう気持ちで取り組んでみた。まず後ろから覚え始めた。連想を呼ぶように組み立てられているためか、2週間ほどで手本を見ないで通せるようになり、すらすら云えるようにはさらに2ヶ月はかかったが、思いがけず全部暗唱できたのである。今は忘れないためと頭と口の体操のつもりで、散歩の折など時々唱えている。
「拙者親方と申すは御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが、御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今では剃髪致して圓斎と名乗りまする。
元朝より大晦日まで御手に入れまする此の薬は、昔、珍の国の唐人外郎と云う人、我が朝へ来たり。 帝へ参内の折から此の薬を深く込め置き、用ゆる時は一粒ずつ冠の隙間より取り出だす。
依って其の名を帝より「透頂香」と賜る。 即ち文字には頂き・透く・香と書いて透頂香と申す。 只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういらう」と記せしは親方圓斎ばかり。もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢へ御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。御上りなれば右の方、御下りなれば左側、八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって、系図正しき薬で御座る。
イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知無い方には正真の胡椒の丸呑み、白河夜船、されば一粒食べ掛けて、其の気味合いを御目に掛けましょう。先ず此の薬を斯様に一粒舌の上に乗せまして、腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝が健やかに成りて、薫風喉より来たり、口中微涼を生ずるが如し。魚鳥・茸・麺類の食い合わせ、其の外万病即効在る事神の如し。サテ此の薬、第一の奇妙には、舌の廻る事が銭独楽が裸足で逃げる。ヒョッと舌が廻り出すと矢も盾も堪らぬじゃ。
そりゃそりゃそらそりゃ、廻って来たわ、廻って来るわ。アワヤ喉、サタラナ舌にカ牙サ歯音、ハマの二つは唇の軽重。開合爽やかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。一つへぎへぎに、へぎ干し・はじかみ、盆豆・盆米・盆牛蒡、摘蓼・摘豆・摘山椒。書写山の社僧正、小米の生噛み、小米の生噛み、こん小米のこ生噛み。繻子・緋繻子、繻子・繻珍。親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親嘉兵衛・子嘉兵衛、子嘉兵衛・親嘉兵衛。古栗の木の古切り口。
雨合羽か番合羽か。貴様が脚絆も革脚絆、我等が脚絆も革脚絆。尻革袴のしっ綻びを、三針針長にちょと縫うて、縫うてちょとぶん出せ。河原撫子・野石竹。
野良如来、野良如来、三野良如来に六野良如来。一寸先の御小仏に御蹴躓きゃるな、細溝に泥鰌にょろり。京の生鱈、奈良生真名鰹、ちょと四五貫目。御茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ。茶立ちょ、青竹茶筅で御茶ちゃっと立ちゃ。
来るは来るは何が来る、高野の山の御柿小僧、狸百匹、箸百膳、天目百杯、棒八百本。武具、馬具、武具馬具、三武具馬具、合わせて武具馬具、六武具馬具。菊、栗、菊栗、三菊栗、合わせて菊栗、六菊栗。麦、塵、麦塵、三麦塵、合わせて麦塵、六麦塵。あの長押の長薙刀は誰が長薙刀ぞ。向こうの胡麻殻は荏の胡麻殻か真胡麻殻か、あれこそ本の真胡麻殻。がらぴぃがらぴぃ風車。おきゃがれこぼし、起きゃがれ小法師、昨夜も溢してまた溢した。たぁぷぽぽ、たぁぷぽぽ、ちりからちりから、つったっぽ、たっぽたっぽ干蛸。落ちたら煮て食お、煮ても焼いても食われぬ物は、五徳・鉄灸、金熊童子に、石熊・石持・虎熊・虎鱚。中でも東寺の羅生門には、茨木童子が腕栗五合掴んでおむしゃる、彼の頼光の膝元去らず。
鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。小棚の小下の小桶に小味噌が小有るぞ、小杓子小持って小掬って小寄こせ。おっと合点だ、心得田圃の川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、灸を擦り剥く三里ばかりか、藤沢・平塚・大磯がしや、小磯の宿を七つ起きして、早天早々、相州小田原、透頂香。隠れ御座らぬ貴賎群衆の、花の御江戸の花ういろう。アレあの花を見て、御心を御和らぎゃぁと言う、産子・這子に至るまで、此の外郎の御評判、御存じ無いとは申されまいまいつぶり、角出せ棒出せぼうぼう眉に、臼杵擂鉢ばちばちぐわらぐわらぐわらと、羽目を外して今日御出での何れも様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っ張り、東方世界の薬の元締、薬師如来も照覧あれと、ホホ敬って外郎はいらっしゃいませぬか。」
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2、小田原のういろう
歌舞伎十八番の「外郎売」は二代目団十郎が享保3年(1718年)正月森田座で自作自演した。享保とは八代将軍吉宗の時代、代々天皇家で決めていた年号を初めて徳川幕府が自ら定めた年号だ。西暦1718年といえば、バッハやヘンデルが活躍していて、モーツアルトや二宮金次郎は半世紀も後でないと生まれてこない時代で、そう考えればずいぶん昔のことと思う。しかし外郎売りの中で現われる江戸の姿は古く感じないのである。まず「ういろう」本家が現在も江戸の姿でちゃんと存在しているのだ。
| 「御江戸を発って二十里上方、相州小田原一色町を御過ぎなされて、青物町を上りへ御出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、」 |
出だしにある小田原の道案内は、今も現地に行けば、たどれるようになっているのである。湘南バイパスを小田原口で降りたところ、ここは東海道の小田原市の東はずれだが、そのあたりが「一色町」といわれたところそうだ。今はその地名はない。小田原の郷土博物館の学芸員に教えてもらったところによれば、一色町というのは、年貢を米でなくて、地の特産品で納めることを許された町を指すのだそうで、ここ小田原ばかりでなく方々にあったそうだ。
最近オーム真理教本部のあったことで有名になった富士山ろくの上九一色村もその例だそうだ。
その一色町を過ぎて、東海道は小田原の中心に来るが、城にさえぎられて左に直角に曲がる。いまの東海道が曲がるのは、は小田原駅から市民会館を通るメイン道路であるが、「青物町」はそのひとつ東側の筋である。
多分江戸時代は小田原城の城域は今よりひろく、東海道も手前で迂回したのであろう。今は国際通りの延長上になるが、「青物町商店街」との名を復元している。歴史的町名を記した石の標識の制作は平成元年となっているから、その頃から小田原市が歴史的町つくりに力を入れたことがわかる。道はまたすぐT字路になる。そこを「上り」に道をとれば、箱根に向かう東海道、小田原城を迂回していくのである。
今も左に小田原城へ登城する口があって、その付近を欄干橋町という。内堀にかけられた橋が朱塗りの欄干橋があるからだろうが、そこに不思議な威容をもつ「ういろう」が立っているのだ。
この「表が三つ棟」の大きな城のような店は、江戸時代のたびたびの地震と、関東大震災で倒壊した。震災前までの建物は白黒写真で残っていて、2階建てである。写真の左端は二十三代当主という。今の鉄筋コンクリートつくりの3階建ては戦後の建物だ。
| 「八方が八つ棟、面が三つ棟、玉堂造、破風には菊に桐の薹の御紋を御赦免あって」 |
このせりふどおりに、江戸を再建したのである。いうなれば、二代目団十郎は当時の外郎家の威容を表現してせりふを作り、現代は逆にせりふに合わせて建物を作ったわけだ。
3、コマーシャル
歌舞伎の外郎売を「ういろう」という薬のCMとしてみれば大変な効果のものである。わが国の広告の歴史を調べた書物でも、古いもので現代に生き延びているものとして養命酒と「ういろう」があがっていた。ただし歌舞伎の「外郎売」はスポンサー付きのCMではなかった。
ういろう側の言い伝えでは、二代目団十郎がこの珍薬「ういろう」で咳と痰の病が癒えたことを感謝して、はるばる江戸から小田原の外郎家に感謝と挨拶のために訪れた。13代目の当主であった「虎屋藤右衛門圓斉」は、その身分は公家で武家であり、一方の団十郎は江戸で有名であったにせよ、歌舞伎役者は河原ものとされて身分が低かったが、俳句の縁で厚く迎えた。団十郎は、このCM的戯作を作ることの了解を得ようとしたが、お公家さんの商売とて藤右衛門はそれを好まず、このような形で紹介されるのを固辞したという。
いまでは大逆転、歌舞伎十八番「外郎売」は小田原市全体のCMとなっている。町もそれに合わせて古い町名を復活させたりしていることはここまで紹介したとおりだ。
江戸の町にはいろいろの物売りがあったが、実際は外郎売は江戸にもどこにも無く純粋に団十郎の頭の中の創作の姿であった。
| 「只今では此の薬、殊の外、世上に広まり、方々に偽看板を出だし、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと色々に申せども、平仮名を以って「ういらう」と記せしは親方圓斎ばかり。」 |
方々にくすりの贋物が出たという話は今も変わらぬせつない話だが、団十郎が藤右衛門圓斉からの話を聞き取って生まれたせりふであれば、この偽ものの跋扈に苦い思いをした圓斉の悔しさがあふれ出ている言葉だ。外郎家では薬の保護を願って時の藩主に禁令を出してもらうことも度重なったが、それでも享保の時代偽薬が跋扈していたのである。もし江戸時代に特許や商標権があれば、成敗せんというくらいの心持が現れている。
そしてまさしく特許制度ができた現代に外郎家は全国的な特許紛争に持ち込むのである。
ところで、多くの人は「ういろう」といえば、名古屋のみやげと思っているのではないだろうか。私も外郎売のせりふの「ういろう」が小粒の仁丹に似た丸薬を言っているというのが何か腑に落ちないくらいであった。それほど名古屋の「ういろう」のほうが全国的に有名なのである。
特許裁判の種になったのはこの羊羹に似た菓子の名のほうである。中国からの伝来には菓子もあったが、進物用程度につくるだけで販売はせず、商いはもっぱら「薬のういろう」であった。菓子の「ういろう」は明治に入ってから売り出した。
その明治に入って日本に特許制度ができたので、さっそくこの小田原の菓子の「ういろう」が商標特許を出願して認可された。八つ棟にやじきたの旅人を配して菓子のういろうと書いた図案であった。事件は名古屋の青柳ういろうが自分の商標を登録する際に起きた。外郎家がういろうという文字は登録済みで、青柳ういろうの新規登録は無効であり、その名前の使用停止を訴えたのである。事件は最高裁まで争われた。平成13年に結審された結果は「いまや『ういろう』は一般名詞になっている」として、外郎家の訴えは却下されたのである。
「ういろう」という菓子は名古屋が青柳や、大須ういろばかりではなく全国方々にあるようだ。山口にも白と黒外郎がある。これは製法まで違う。小田原や名古屋の「ういろう」は、ともに米の粉の蒸し菓子であるが、山口は小豆で羊羹に近い。
4、心配と希望
| 「もしや御立会の内に、熱海か塔ノ沢へ湯治に御出でなさるるか、又は伊勢へ御参宮の折からは、必ず門違いなされまするな。」 |
今も変わらず熱海や塔ノ沢の箱根は人気であるけれど、歩く旅ならば東海道に面して、門違いもできないほど目立つ存在である外郎本家であるが、車では小田原厚木道路、西湘バイパスともに、箱根、熱海への道が高速でつながり、この部分は素通りである。せっかくの威容も見る人も少なくなった。博物館まで作られているのに、訪れる人も少ない。
心配は他にもある。生薬のういろうは、麝香など貴薬が含まれその原料がだんだん入手困難になってきていると聞く。一部には根強い人気があるが、昨今の製薬業界の競争の中で商品としていつまでも耐えられるか。
また「お菓子のういろう」も後発に押され、小田原のういろうはローカル色が強いままである。
願ってもないCMである歌舞伎十八番の外郎売も、団十郎襲名披露など特別な機会に演じられるだけで、勧進帳ほどには知られていない。幸い活舌練習用のせりふとしてユニークな広がりがあって、それは今後も生き続けるであろう。
生きた歴史文化遺産として生き残ってほしいと願うや切である。
5、外郎売と茶の湯
この外郎売のせりふのなかで、特に私が関心を持ったのは、江戸の茶の湯に関する言葉がたくさん出てくることである。まず、「お茶たちょ、茶たちょ、ちゃっとたちゃ、茶だちょ、青竹茶筅でお茶ちゃっとたちゃ」。もっとも言いづらいせりふである。「安い道具の青竹茶筅でいいから、ちゃんとお茶をたてなさい」という意味のようだ。
朗読研究家の坂井清成氏の「外郎売のせりふの解説」によれば、
『「青竹茶箭」は茶席では用いられない粗製品で、台所用品として用いられたものらしい。その頃家庭や茶店などのお茶は、すべて茶の葉を袋に入れて、今日のティーバッグのように湯の中で振り出したものに、塩を少し入れて青竹茶箭でかきまわして飲んだものだとか。大方このことばは、その青竹茶箭で早くお茶を立てろということを調子よく言ったものだろう。』とある。
「青竹茶筅」は、今はこの外郎売のせりふに出てくるためかもしれないが有名になって、別注の高価な品物として販売されている。これと対になるのが「すす竹茶筅」であって、長年囲炉裏の煤にさらされた竹で作られるこげ茶色の茶筅で、これは大変高価だ。我々が普通に使うのは、煤竹でも、青竹でもないその中間の枯れた竹の茶筅である。やはり本来青竹茶筅というのは安物なのだろう。
次に「来るは来るは高野の山のお子けら小僧、…天目百杯」が出てくる。天目茶碗は、茶の湯の茶碗である。元来は栄西が宋からもたらされた禅修業に使った仏事抹茶の茶碗であった。宋代の曜変天目茶碗はご存知、国宝である。
さらに後半のはじまり、「鮒・金柑・椎茸・定めて後段な、蕎麦切り・素麺、饂飩か愚鈍な小新発知。」というのがあるが、鮒・金柑・椎茸という季節ものの質素な食材がでて、「その後に決まったように」麺類が出されたというのは、格式ばらない町民の茶懐石を連想させられる。
この外郎売で、江戸の茶の湯は、軽口に乗るほど気楽に楽しまれていたのかもしれないと気づかされた。堅苦しい茶道を敬遠するがゆえに、抹茶には近寄らなかった私だが、にわかに茶の湯への興味がでてきた。それこそ「やもたてもたまらぬじゃ」ということになった。まず我が家に眠っていた抹茶道具を出してきて、抹茶を手にいれて、我流で一服点ててみた。驚くほどさわやかで高雅な味であった。
6、栄西喫茶養生記と現代の薬学
かぼちゃ、さつまいも、唐辛子、さまざまな食物や植物が過去外国から入ってきたが、その起源がきっちりとは分からないことが多い。しかし茶は、中国に留学した佛教僧によるということがはっきりしている。なぜなら茶の先進国の中国で、茶は佛教修業に尊重されていたからであり、それを学んだ留学僧が、日本になかったお茶を持ち込んだのは当然の成り行きであった。その代表は、平安時代は最澄であり、鎌倉時代は栄西である。
時代は最澄が先ではあるが、何故か、栄西が茶伝来の祖であると多くの書に紹介されているが、それは彼が「喫茶養生記」という後世に残る本を書いたからであろう。
栄西は仏門名門の出自でなかったために、佛教界の高位に這い上がるための出世の機会を常に求めた人であった。世は源平の争いでめまぐるしく政権も動いた時であった。彼は常に時々の朝廷や政権に近付き、鎌倉幕府の時代には鎌倉に来た。三代目将軍実朝の病の平癒を祈り、その際彼が宋から持ち込んできた茶を薬として献上した。その折にこの本を書いたと「吾妻鏡」に書かれている。栄西は頼家やその母政子の深い帰依により、鎌倉の義朝の邸宅跡地に寿福寺を建て寄進をうける。今この地に実朝と政子の墓穴がある。栄西もここで亡くなったとも云われている。後の江戸時代中期にはこの書が京都書律から木版印刷書として刊行され、化政時代にかけて刊を重ねた人気のある書物であった。
この喫茶養生記で栄西が述べているのは、お茶が薬として如何に健康に良いかということだけである。作法のことは禅の仏事としても、一切触れていない。
その冒頭は
「入宋求法前権僧正法印大和尚位栄西録す
茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山谷之を生ずれば其の地神霊なり。人倫之を採れば其の人長命なり。」
と書き出し、茶が五臓の中心である心臓に良いことを述べる。心臓がしっかりすれば他の臓器も健全になる。
「心臓は是れ五臓の君子なり。茶は是れ苦味の上首なり。苦味は是れ諸味の上首なり。是に因って心臓、この味を愛す。心臓興るときは、則ち諸臓を安んずるなり。」「頻りに茶を喫すれば、則ち気力強く盛なり。」
そして彼の大博識が仏典に限らなかったことを誇るように、中国の諸書から、陸羽の茶経を始め、神農の食経、華他の食論、天台記など20数種類の書から引用して茶の効用を述べたのである。
さて驚くべきことは、この喫茶養生記にあるお茶の効用を、20世紀の薬学が証明したことである。その発見には日本茶の文化の伝統ある日本の科学者が大いに寄与している。かってはお茶の渋みをタンニンと称されて、我々はこの言葉に親しいし、厚生省の標準食品成分表には主成分名はタンニンで表示されている。しかし現代はこのタンニンは死語になりつつある。茶の有効成分は、詳細に分析され化学成分式も判明して、タンニンと総称された成分のうちの主成分としてカテキンが使われるようになった。カテキンには殺菌作用があり、「勝て菌」だと語呂をあわせる向きもある。最近の注目は、カテキンの抗酸化力、発ガン防止、動脈硬化,老化防止に効果があることが実証されてきた。まさに栄西の言う心臓によく、長寿の妙薬なのであった。
7、抹茶だけが唯一の「養生の仙薬」
さてこのカテキンに長寿の貴薬の効果があるとして、一体どの茶を、どのくらい飲めば良いのか。いろいろの茶の本があり、薬効を書いた本もあるが、定量的には明確な示唆は得られない。いくつかの断片的なデータを与えてくれるウエブ(注1)を参考にして,自分なりに試算してみるほかない。
まず効果のあがったというデータを提供しているのは次の例であった。「静岡県立大の茶の産地での疫学調査や、埼玉県立ガンセンター研究所が進めている1万人規模の一定の集団を調査・追跡する研究で、1日にお茶を10杯以上飲むとガンや心臓病死の危険を減らせることを実証した。」
キーワードは「1日にお茶を10杯以上」ということだけだ。お茶1杯に有効成分のカテキンはどれくらい入っているかは、お茶の種類や出し方によって変わるので、大変大雑把な話になる。あるウエブではカテキンは1杯に70〜100mg含まれているというが、根拠は示していない。最近のデータで多少とも科学的根拠があるものは、平成十七年版の日本食品標準成分表(注2)にある嗜好飲料<茶類>のデータである。ここでカテキンはタンニンとしている。
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煎茶 浸出法 10g/ 90℃ 430ml 1分
紅茶 浸出法 5g/ 熱湯 360ml 1.5分~4分
ウーロン茶 浸出法 15g/ 90℃ 650ml 0.5分 Taタンニン g
VB2ヴィタミンB2 mg
Kfカフェイン g VB6ヴィタミンB6 mg
βKベータカロチンμg VcヴィタミンC mg
VkヴィタミンK μg Ptパントテン酸 mg
VB1ヴィタミンB1 mg Kカリウム mg
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上の表は煎茶10gを90℃の430mlの湯に1分に入れたとき70mgのタンニンが滲出したとしている。発ガンの少ないとされた静岡の人たちが飲む1日10杯の茶は、むろん緑茶で、煎茶か番茶といった種類であろうからこのデータから推定できる。煎茶道の本によれば、一人あたり3gくらいの葉を使うことを奨めている。お湯の量は1杯多くて150cc程度だが、お湯の量はそれほど左右されない。お茶の葉が3gなら1杯のお茶には、20mgしか含まれていないことになる。このような煎茶なら毎日10杯飲んでも200mg程度だ。これは茶杓2杯(約2g)で入れる抹茶1服に含まれるタンニン200mgとほぼ同じだ。
つまりカテキンの量で比較すれば、煎茶10杯が抹茶1服と同じなのである。直感で考えても、抹茶はお茶を直接粉砕したものをすべて飲むのであり、従って茶の有効成分も丸々いただくわけだが、煎茶などはお湯に滲みだす成分だけが有効で、多くは茶かすに残されてしまうとみると、この比較は常識的にも受け入れられる。
さらに抹茶は、茶を蒸気で短時間蒸して、茶を傷つけることなく、ひろげたまま乾燥し、碾茶とし保存し、抹茶とするときも、温度の上がらない石臼ですりつぶして粉に挽く。全体に茶葉にやさしい工程で作られるので、この成分表にあるように、茶に含まれる貴重なヴィタミン類やベータカロチン、カリウムも保存されている。これに対して、加熱揉捻工程を経る煎茶などの緑茶や、発酵によって積極的にカテキンを香成分に転生するウーロン茶、紅茶は、カテキンも激減しヴィタミン類も残っていない。これらは健康飲料といってもさほど積極的なものではない。
唯一抹茶のみが栄西のいう「養生の仙薬」であった。栄西はむろん抹茶しか知らなかった。
8,抹茶がなぜすたれたか。
ではなぜこのように「養生の仙薬」であった抹茶がすたれてしまったのか。茶の本場中国では抹茶は存在しない。(インターネット検索で中国で最近抹茶生産が行なわれていることが出るが、これは日本メーカーの委託生産だ。)
その日本でも煎茶、番茶に比べて、抹茶はきわめて少数派だ。生産統計で見れば全茶生産量の中、抹茶の原料である碾茶(てんちゃ)は1.5%である。私の貧しい経験でも、何かのイベントで抹茶席が出ていただく以外に抹茶に接することはなかった。それもできれば作法の無知を恥じて敬遠したかった。しからば、茶道の師匠は抹茶を飲んでいるのかというとそうでもないらしい。お手前はお客を招き接待するための作法だから、自分のために抹茶を点てて飲むことを日常的にはしないそうだ。
宋の時代、あるいは鎌倉時代には、茶と言えば抹茶であったにもかかわらず、このように影の薄い存在となったのは何故か、歴史的にたどってみたい。茶の歴史は長く、世界を巻き込んで大変複雑である。しかしその展開の原動力を突きつめて整理すれば、
@ 薬よりも嗜好飲料へ
A 流通保存に耐える茶の形態、
の流れと見て取れる。
まず茶は中国の神話の神農によって薬種として発見された。唐の時代に普及したときは団茶であった。馬か、らくだしか流通の担い手のない時代、繊細な植物である茶を商品として流通させるためには、長持ちできる形が工夫された。茶を蒸して、乾燥し、砕き、自然発酵させ、団子のようにつき固めた団茶であった。それを削って湯に溶かして飲んだ。この形でシルクロードを通って、茶は世界に広まっていった。遣唐使がもたらした奈良時代の茶はこの団茶であった。今中国でその姿が残るのは黒茶、チベットや中国西南部の少数民族は、この団茶の一種である黒茶を健康に欠かせないものとして飲んでいる。
抹茶は茶が高貴薬として扱われていた時代に生まれた。宋の時代、日本は鎌倉、栄西の時代である。自生の茶の樹ばかりではなく、茶畑栽培が盛んになり、都市からそう離れていない地で生産できるようになった。そのため発酵させない元の姿のままの茶を粉にしたものが飲めるようになった。それが抹茶である。すなわち茶葉を蒸して発酵させないようにし、乾燥しただけの葉を、碾茶(てんちゃ)といい飲用するときに石臼で引いた。保存には適さない。当然限られた僧侶、貴族だけが、接することができたのである。
「薬から嗜好飲料へ」とはどのような意味であったか。おそらく茶が健康に良いということは漠然と万人に知られていた。しかし化学分析の知識もない当時は、茶の健康有効成分がカテキンを主とするものであることも知らなかったし、それは発酵などで壊れやすいことも、また茶葉を湯につけて抽出する方法では、わずかしか薬効成分は出てこないことは分かる由もなかった。それよりもお茶が安価に安定して供給できることと、飲みやすく味や香の良いことが優先された。団茶でなく乾燥したばらばらのお茶すなわち散茶のほうが使いやすかった。乾燥しながら揉むことで流通に適する商品ができた。緑茶、煎茶である。茶葉に湯を注いで出す「撮泡法」という簡易な出し方が広まった。茶葉は食べないで茶の成分が滲みだした湯を飲むものとなった。
中国の明の時代はそれが主流になっていた。中国僧隠元はその煎茶を江戸時代の日本にもたらし、民衆にも広めた。日本は中国に比べて流通経路はさほど問題にならないので、新鮮な緑茶のままが主流となった。すなわち採れた茶葉をすぐ加熱して、茶葉自身が表面に持っている発酵酵素層を、不活性にして発酵させないようにして、そのまま緑茶となる。
広い中国や、さらに英国のように輸送経路の長い流通に耐えるためには、茶を発酵させて、品質を安定させることも重要だった。現代の科学の分析ではカテキンはこの発酵過程で酸化され、芳香を発する酸化重合化合物に変性するとしている。発酵茶が好まれるのは、この芳香であった。独特の風味が出てきたわけである。発酵の程度で半発酵のウーロン茶、熟成発酵の紅茶となった。
茶の原産地中国では、今もさまざまの種類を楽しむ茶の文化は盛大であるが、抹茶はない。
日本でも栄西の時代のように、高貴薬としての茶であり続ければ、中国と同じように消えてしまったかもしれない。日本で抹茶が生き残ったのは、よく知られているとおり禅寺から武家階級へと伝えられるうちに、精神修養の手段として茶道が確立し発展していったためである。仲介したのが千利休など堺の裕福な町民であったのがよかった。武だけの世界に美をもたらした。岡倉天心が、茶の本で述べたように茶道は生活のアートとして、嗜好や健康以上の文化価値をつくりあげたのである。
茶道の担い手は文化の担い手でもあった。堺の裕福な町民から、覇権を確立した将軍、大名の茶へと移行して行った江戸時代もその基本である生活芸術としての性格は変わらなかった。そんな中でいつとは知らず庶民の間でこれをまねて「地下茶」といわれる粗末な抹茶を飲む習慣もできていたようである。狂言に「茶壷」という演目がある。(注3)私はそれを歌舞伎舞踊に移した舞台を見たが、大名の間には栂尾の初物茶が如何に大切であったかを話しの種にしながら、それを笑にする江戸庶民の気宇を垣間見た気がする。そのような背景の中で外郎売の「お茶たちょ 茶だちょ、ちゃとたちょ、青竹茶筅でお茶ちゃっとたちゃ」の軽口早口言葉もあったのだろう。「地下茶」の底流が健在であったのだ。
江戸から明治の変革期に大名茶のスポンサーであった大名が力を失ってお茶の家元の経済地盤も揺らいだが、明治以降に新たな展開がうまれた。裕福な婦女子の教養の習い事として、その差別感に頼って家元制度を保ったのである。現代に抹茶を伝えた日本の茶道は、しかし功罪半ばするものを感じる。確かに抹茶は茶道なくしては現代に伝えられなかった。広がる世界の茶文化の中で、抹茶が日本だけに生きているのは茶道家元の権威のおかげである。
一方、歴史の重みに支えられた家元は、その権威に無批判の同調者に囲まれて、煩瑣な作法を墨守しているだけの茶道には罪もある。それは権威主義的であり、精神文化というより物神的で、庶民から縁遠いものであり続けた。「抹茶は飲み方がうるさいので、やめておこう」という人を多く作ったのである。
9、気楽流、自由な抹茶の楽しみ方の奨め
さてくどくどと書いてきたが言いたいことは、気楽な自由な点て方でいいから、こんなに不老長寿の効果のある抹茶を毎日飲もうということである。
功罪半ばするとした家元流であるが、不思議なことにその指南書には、抹茶の点て方自体は、詳しく説明していない。その種の本には、茶道の歴史や精神論と割稽古という作法ばかりくわしく、肝心の抹茶を点てることや、またお茶の選定についてはほとんど触れて無い。これを書いている間もNHKの趣味講座で、表千家の茶道紹介が行われているが、ここでも周辺の道具は、千家十職と紹介するが、お茶そのものについては触れない。繰り返すが不思議である。
抹茶はたくさんの産地と銘柄がある。薄茶用と濃茶用は茶葉の採りからして違うようである。お茶をそのまま飲むのだから、残留農薬も気になる。掛川で小さな農業をする友人によれば、茶畑は害虫が多く農薬なしでは収量が激減するという。周囲で農薬を使っているなかで、無農薬で通そうとするといっそう害虫の集中攻撃を受ける。農薬を使っている農家の目もきびしいという。しかしそれでも無農薬抹茶を作っている茶園があった。伝統の茶所がでないところだ。(注5)試してみてお奨めできるのは、近江朝宮かたぎ古香園の抹茶翠峰である。
抹茶を習い事でなく自由流でやろうとすると、意外と安い費用で実現するのだ。まず茶道具は、1000円くらいの茶筅、5〜6百円の茶杓、抹茶茶碗も1000円くらいで楽しめる。抹茶も先の無農薬抹茶は40g1500円ちょっと。もしちょっと贅沢に雰囲気を作ろうとすれば、抹茶を入れる棗が3000円くらいからある。無論茶道具に上はキリがない。近くのデパートで茶道具の展示販売会をやっていた。気まぐれに天目茶碗は無いかと聞いたら、「今回は持って来ませんでしたが、今京に6000万円の出物がありますが」とささやいてくれた。こちらも驚かぬ風で慇懃な礼をして立ち去った。
さて点てかたであるが、ウエブにこんな点て方が載っていた。これはやってみてうまくいくので紹介しよう。(注5)この中で「ダマ」といっているのは、抹茶の粉は大変細かいので、ころころと玉になりやすい。それは立てたときもいつまでも残ってしまう。中には篩にかけて使えというむきもあるが、これは大変やりにくい。
「茶道を習っていらっしゃる方は多いと思いますが、ここでは、それとは全く違った点て方をご紹介したいと思います。
苦みが出にくく、ダマもできにくい点て方ですので、一度お試しになってみてはいかがでしょうか?
いつもの抹茶がまろやかな違った味になります。
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抹茶を茶杓二杯(約2g)茶碗に量り入れる。 |
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ほんの少量5ccほどのぬるま湯で、1.の抹茶を茶筅でとく。
この時お濃茶を練る要領で抹茶と水をなじませるように丁寧にとくと、チョコレートを溶かしたような感じになります。
5ccのぬるま湯はポットのお湯を湯呑みに取り分けてから注がれるか、抹茶に直接お湯がかからないように茶碗の肌に沿わせて湯を注ぐと良いでしょう。低い温度の少量の湯で練りますので、苦渋みの成分は出にくく、旨味と甘みと成分が出てきます。 |
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ポットのお湯を50cc〜60cc直接注ぎます。 |
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茶筅を素早く前後に振り動かし、泡がふわりと細かく立つようにして出来上がりです。
いつもの点て方と、飲み比べてみましょう。 |
抹茶は、お湯で点てるばかりではない。夏は冷蔵庫に冷やした水で、同じ要領で点てると最高の暑気払いだ。また癖のない麦焼酎や、テキーラでわると簡単なカクテルになる。これもお奨めだ。
10、抹茶復活の兆しを喜ぶ
生き延びてきた抹茶は、今後この日本で元気を取り戻すと予感する。いや日本ばかりでなく、本場中国でも復活し、またさらに世界でも広がると思う。ウエブを渡り歩いているうちに、茶の生産に携わる人々の活気を感じた。すでに中国では抹茶の生産を再開し始めている。(注6)日本向けではあるが、大きな端緒になるかもしれない。
最近、改めてお茶=カテキンのすばらしい健康作用が新聞雑誌で語られるようになった。いろんなスポンサーに遠慮するためであろうか、お茶=カテキン=抹茶という図式では語られないが、それはまもなく皆さんが気がつくであろう。その機運を作るのは抹茶を作る人たちである。
愛知県の西尾市という町をご存知か。ここは抹茶の生産が日本のトップクラスということで、町をあげて抹茶文化を大切にしている。春、盛大に行われる市民大茶会のほか、時折々にお茶会や野点が開かれ、保育園や小・中学校でも全校茶会が楽しまれているという。市内の小中学生は5月上旬から下旬にかけてお茶の手摘みに勤労体験学習として参加、お茶とのつながりが小さい頃から自然に身についている。この町のホームページにリンクした「茶学」に抹茶の健康作用がよくまとめられているので以下にそのまま引用してこの稿を終わりたい。(注7)
発ガン、腫瘍を抑制
茶産地のガン死亡比は全国平均の約5分の1であることに着目、マウスやラットを使った様々な研究が行われてきた結果、緑茶の渋味成分であるカテキンが主として、抗腫瘍作用、発ガン抑制作用を持っていることが明らかになりました。カテキン、ビタミンCは、水(湯)に溶けるのでお茶として体に取り入れることができますが、水に溶けないカロチン、ビタミンE、食物繊維は飲むだけでは摂取されず、その点お茶の葉を石臼で碾いてによる死亡率は、5杯以下しか飲まない人の2分の1以下という結果が出ています。
コレステロールの上昇防止
血液中にコレステロールが増えすぎると、動脈硬化を招き、狭心症や心筋梗塞、脳血管障害など引き起こす原因にもなります。ラットを使った実験で、カテキンがコレステロールの上昇を抑制する特徴を持っていることが分かりました。しかもよく知られているようにコレステロールには善玉と悪玉のコレステロールがあり、驚くことにカテキンは悪玉コレステロールのみを減少させています。
血糖値を下げ、糖尿病を防止
生活習慣病の一つであるといわれる糖尿病は、一口でいうと血液中のブドウ糖の量が増え、尿中にブドウ糖が排泄されるようになる病気です。現在40歳以上の日本人10人に1人はいるといわれ、一度かかると根治しにくく動脈硬化や網膜剥離を招くこともあります。昭和10年のこと、抹茶を毎日飲んでいた糖尿病の患者が、治療法であるインシュリン注射をやめても血糖値が上がらないという現象が見られ、不思議に思った医師が他の患者にも1日3回抹茶を飲ませて調べたところ、9人中8人までが尿糖の血糖値が上がらないという結果がでました。現在、お茶のカテキンや多糖類の中には、血糖値を下げる働きを持つもののあることが分かっています。
抗酸化作用で老化防止
ガンや老化の原因になる過酸化脂質。これは体内の脂質が呼吸によって取り入れられた酸素の一部の活性酸素と結び付き性質が変化し、体にとって悪く作用します。血管の壁にこびりつき動脈硬化を引き起こしたり、老化色素をつくり年齢に比例して体内に蓄積され、老化を促進させます。その体内の酸化反応を抑える抗酸化物質が、お茶に含まれているカロチン、ビタミンC、E。さらにカテキンはビタミンEの20倍もの抗酸化力を持ち、天然の酸化防止剤として利用されています。
食あたりと風邪の予防
お茶に含まれるカテキンは、ウイルスの増殖を防ぎ、毒素を無毒化させる作用があります。お寿司屋さんで出される「上がり」、おなかの調子の悪いときにお茶がいい、など体験から生まれた生活の知恵が、研究でも実証されています。この他、細菌の増殖を防ぐことから虫歯(お茶は歯の表面を強くするフッ素も成分として含まれています。)や歯周病対策にも、煙草のヤニやニンニクの臭い消しにも有効です。またインフルエンザウイルスにも効果があるため風邪を予防します。お茶でのうがいはかなり効果的です。この特性から最近では、エイズウイルスの増殖を抑制する効果があることも解明されつつあり、今後の研究が期待されています。
眠気や疲労感を取り、心身をリフレッシュ
中枢神経を興奮させるカフェインは、眠気や疲労感を取る以外にも、強心作用や利尿作用を持つことも分かってきました。コーヒーと比べお茶のカフェインは作用が緩やかです。仕事の合間の一杯のお茶は、頭をすっきりさせ、体の疲れを癒やしてくれます。微粉末になったお抹茶は緑茶成分を全部飲んでしまうことができ、大変効率よく取り入れることができます。
高血圧を予防
昔からよくお茶を飲む人には高血圧や脳卒中が少ないといわれています。カテキンには血圧を押さえる効果があることが、脳卒中を起こしやすいラットの動物実験でも報告されています。ある報告によると、1日にお茶を5杯以上飲む人の脳卒中
(注1)http://www.mit-japan.com/ndl/ndl/GreenTea.htm
http://www.health-net.or.jp/kenkozukuri/healthnews/020/120/k480/index.html
(注2)文部科学省科学技術・学術審議会資源調査分科会五訂増補
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu3/toushin/05031802/002/
(注3)狂言「茶壺」
主人の使いで京の栂尾トガノオまで行き、茶を買い求めて来た田舎者が、途中で立ち寄った知人の処で酒を振る舞われ、酔っぱらって街道筋に寝てしまう。其処へ通り掛かったスッパ(悪者、シテ)が、茶壺を盗もうとして、茶壺を担った縄の片方に肩を入れ、田舎者と背中合わせに並び臥す。間もなく目を醒ました田舎者と茶壺を奪い合うところへ、騒ぎを聞き付けた目代モクダイ(代官)が現れて裁きを着けることになる。
しかし田舎者の申し立てる内容を、スッパが盗み聞きして同じように答えるので、どちらの物とも決め兼ねる。次にこの茶の産地や商品明細を言わせる。田舎者が拍子に掛かって舞いながら述べると、次にスッパもその通りに真似をする。更に両人相舞アイマイに舞えと命ずると、矢張りスッパは巧みに誤魔化して果オオせる。遂に裁き兼ねた目代は、昔から論ずる物は中から取れと云う諺コトワザがあると言って、自分が茶壺を取って逃げるので、田舎者・スッパの両人が追い込む。
雑狂言。大蔵・和泉両流にあり、筋立ては変わらない。目代が二人の言い分を代る代る聞くところに、狂言の芸の特色でもある演技様式パターンの反覆が効果的に生かされる。見所は相舞(連舞ツレマイ)だが、スッパがちらりちらりと田舎者の出方を見て真似をする、付かず離れずの呼吸の面白さが眼目である。
天正狂言本には、『茶ぐり』の名で載っている。
この狂言は、大正十年(1921)岡村柿紅が歌舞伎舞踊化し(長唄)、七世坂東三津五郎によって初演された。こちらの舞踊「茶壷」では、代官が持って逃げるという筋は、お上に恐れ多いという気配りがこの時代に生まれていたようで、持って逃げるのはスッパで、それを田舎ものが花道を追いかける筋に変えられた。
(注4)無農薬抹茶
近江朝宮かたぎ古香園http://www.katagikoukaen.com/commodity/index.html
茶問屋冠城園http://www.kaburagien.co.jp
(注5)http://web.kyoto-inet.or.jp/people/gyokusui/s_gift0001.htm
(注6)最近日本の茶業者の援助で中国で抹茶生産が行われるようになった。日本向けのようである。(http://www.hdgmc.com/about.asp)
(注7)http://www.city.nishio.aichi.jp/kankobunka/juku/cha/index.html
付録
茶の湯はコロイド、抹茶は当時の微粒子工学の最先端
無農薬抹茶をインターネットで探して二つのお茶屋さんを見つけて購入した。この二つのお茶製造社のお茶は際立った差があった。近江の朝宮翠峯は、細かい泡がたってきれいに点てることが出来る。無農薬にこだわらなければ、伊藤園などの有名な会社の抹茶と同じように点てられる。
しかしもう一つのK社のものは、同じように茶筅で攪拌しても、お湯の中で茶の粉末がすぐ沈んでしまう。点てることが出来ないのだ。
この経験から、抹茶で点てた茶の湯は、化学の言葉で言えばコロイド状態になっていることに気付かされた。コロイドとは粒子が水の中で解けるのではなく、安定して分散している状態を言う。界面化学でも最近解明が進んでいる分野だ。
K社のものは、攪拌してもコロイドにならないのだ。
この原因の一つは、抹茶の粒径の違いにあるだろうと推定して、友人に頼んで粒径を計ってもらった。レーザー回折散乱式粒度分布測定器という高級な計測器で測ることが出来た。(注1)その結果は明瞭であった。
きれいに点てる事の出来た近江の朝宮翠峯は平均粒径9ミクロンできれいな正規分布をしている。
これは、スギ花粉の数分の1、赤血球とほぼ等しい細かさだ。
これに対して点てる事の出来なかったK社の抹茶は90ミクロン位にピークがある非正規分布をしていて、これは100ミクロンのメッシュで篩をかけ、100ミクロン以上の大きいものが取り除かれたものと分かる。
抹茶は、茶の葉をさっと熱処理して乾燥し、碾臼で丹念に挽く。石臼が持つ大きな熱容量で、挽くために発する熱を吸収して発熱を防ぎ、茶の微粒子の酸化を防いだ。
そして攪拌のために繊細で丈夫な茶筅を開発した。攪拌できる大ぶりの茶碗を作った。この道具立てで、茶の湯という芸術が開いた。そこには現在も引き継がれている高度な技術発想であった。
最近は大手メーカでは石臼に替わる技術が使われはじめた。インスタントコーヒーは淹れたコーヒーを瞬間冷凍して微粉末とする。粉茶のメーカが、この種かまたは別の超微粒子技術を使って「粉末茶」を出している。これはお湯に溶かせばそのまま飲める。攪拌の茶筅も大振りの茶碗も必要ない。茶の湯の芸術は出番を失う。
注1)須田譲氏の好意でSKレーザーマイクロンサイザーLMS-350使用。
2008/3/15
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