第28回  現代における報徳思想受容の一考察
2009年11月例会
 

講師:伊藤公博 

1989年日本I・B・M(株)退社後“二宮尊徳”学習を通して農地を荒廃から守る運動「学園花の村」設立に参加。現在「学園花の村」広報担当。同機関紙「花の村だより」編集責任者。

 
 

T・報徳思想受容の流れ
はじめに
 昭和の初頭、日本農村を襲った経済恐慌から脱出のため、官民挙げて取り組んだ「農山漁村経済更生運動」は二宮尊徳の報徳仕法をその運動の根本理念としている*注1。江戸時代末期に生まれた農村復興仕法が、現代にどのように受容されたのであろうか。この運動を指導した「農林省経済更生部長 小平権一」や、大日本報徳社副社長佐々井信太郎達の論説、行動から報徳思想が現代にどのように受け継がれたかを考察してみたい。これは報徳思想を出発点として、年々増大する耕作放棄地対策として「みんなでやろう小さな農業」を標榜、活動しているわれわれ「学園花の村」活動の根本理念を固めるための学習*注2である


 
T−1.私たちは報徳をどのようにして学習したか
 私たちいわゆる戦前・戦中に日本の小学校教育を受けた者は、だれでも二宮金次郎(尊徳)のことは知っている。「報徳」は知らなくても尊徳の幼名「金次郎」のことは校庭に立つ少年金次郎像や唱歌によってこの歳になっても忘れることは無い。

  我々が学んだ小学校の国定教科書は敗戦の1945年までに10年単位で5回改訂されているが、その全期間を通して「二宮金次郎」は明治天皇に次ぐ第2位の登場回数*注3を誇る。小学校教育に関する限り尊徳は教科書登場人物中のスターであった。我々は好むと好まざるとにかかわらず、小学校における修身教育課程で『手本は二宮金次郎』と歌う唱歌の文句通りに金次郎を生活のお手本とするよう教育されたのである。*注4 

 私は1934年(昭和9)生まれで、上級の学校で二宮尊徳がどのように取り扱われたかは知らない。我々の「学園花の村」活動の指導者宮城正雄氏は1916年(大正5)生まれ、昭和初期、大日本報徳社のある掛川市の隣町小笠にあった私立「双松学舎」に学び、「二宮翁夜話」を教材とする徹底した報徳教育*注5受けたという。しかし1945年以降、敗戦により日本の教育制度は根本から変革され、その過程で二宮金次郎もわれわれの教科書から姿を消した。以来教科書で金次郎に会うことは無くなり、当時小学校5年生であった私の金次郎は子供のままで成長を止めてしまった。

 私が大人になった金次郎(以下総て尊徳と称する)を読んだのは二宮尊徳生誕200年祭が
小田原で催された1987年のことである。小田原の報徳博物館を訪ねて入手した「二宮尊徳生誕二百年記念論文集 尊徳開顕」に今日まで絶えることなく報徳を追及している人々の存在を知った。
  
  私の関心は二宮尊徳の思想、仕法そのものにあることはもちろんであるが、それが時代の異なる現代においてどれほど有用であるかを問うという問題意識あってのことであり、その観点から「時、所,位」に基づいて報徳というものを受け止め、当面する問題に立ち向かう尊徳の後継者の思想、行動に「報徳」の多くを学んでいる。江戸末期、窮乏に苦しむ社会の救済過程で形作られてきた報徳の思想および仕法は、尊徳死後その門人たちの手で時代の要請に応えるべく形を変えて次世代へ引き継がれている。それは彼等の精進の集積であり、今日私たちの面前に巨大な遺産として聳える。尊徳をかこむ弟子たちの存在は大きい。報徳仕法の流れを概観する。




 
T−2.尊徳直弟子の時代 (明治30年頃まで)― 行政式仕法から結社式仕法へ

 日本は尊徳死後明治維新を経て大きく変った。この時代日本は徳川幕藩体制から脱皮し(1867年)、欧米諸国を模範としながら近代資本主義国家の一員となるためのステップを踏み出した。その新しい時代は尊徳直弟子の活躍した時代でもあった。彼等は社会の大転換に直面し、襲いかかる困難をそれぞれの立場で解決する中で今は亡き師の教えの普及に努めた。

  その中で特に大きな影響を後世にもたらしたといわれる4人、富田高慶、福住正兄、斎藤高行、岡田良一郎は「二宮四大人」と呼ばれている。*注6。幕府崩壊により行政式仕法による上からの仕法展開の立場を失った報徳仕法は、「富国捷径」の中で福住が熱っぽく説く指針に導かれて*注7各地で結社式仕法による活動を展開する。新しい権力体制である天皇制の支持を得た報徳記、二宮翁夜話などの普及を背景に時代に即応した結社式組織「報徳社」は「二宮四大人」がそれぞれ主宰する報徳社を軸として各地での広がりをみせた*注8

  日本が西洋文明を積極的に取り入れ近代国家への道を歩み始めたとき、報徳思想は旧徳川幕藩体制下の一行政手法として歴史の舞台から消え去ることなく、それどころか社会の要請に応えて「結社式」という下からの報徳仕法によって、当時の人々が直面する社会的困難に逞しく立ち向かったのだ。それを可能にした理由を報徳思想の持つ時代を超えた内容に求めるのは当然のこととして、この時期、師の教えをひたすら実践しようと勤めた弟子たちの存在は大きい。*注9

 しかしその理想化は日本の天皇制国家確立強化の進行と並行して進められた。報徳の「語り部」たちは明治天皇を仁君と崇め、報徳と尊皇は一体の理念と説いた。敬神、尊皇、愛国を報徳の趣意と説く福住の「富国捷径」はその代表的例である。各地で結社された報徳社もこの時代の精神に添う形で運営された。天皇制国家に絶対の信頼を置く報徳運動は、その後発布された教育勅語と一体となって日本国民の道徳倫理のバックボーンとなり、近代化の道を進んだ。教育勅語は国家の必要とする国民の道徳倫理の骨格として報徳思想普及活動の中に取り入れられた*注10

  斎藤高行の明治18年に出版した「報徳外記」の第25章は「上は王候から下は庶民に至るまで、各々その天分にとどまり、節度を立て、勤倹を守り、分外の財を譲って報徳の資財とし・・・・・・」という為政者の分度論に始まり、開国、鎖国の論議に対する尊徳の国家論が展開されているが、多くの尊徳の語り部たちは、為政者の恣意にブレーキをかけるこの尊徳思想の分度論の一面には触れようとしない。日清戦争と日露戦争との間で大きく日本国家に対する見方を変えざるを得なかった内村鑑三の苦悩はいずれ背負わなければならなくなる日本の負の遺産への予感と見ることができる*注11




 
T−3.孫弟子の時代 (@)(日露戦争以後1945年日本敗戦の年まで)

 明治30年以降直弟子の跡を継いだ孫弟子たちの活動はその活動の特徴から、日露戦後の中央報徳会結成を中心とする明治、大正期の前半と、経済不況に襲われた昭和始めから1945年日本敗戦の昭和期の後半に二分できる。

日露戦争後の報徳運動の大きな出来事はなんといっても明治39年、政・財・官・学界の指導者を主な会員とする中央報徳会*注12が組織されたことと、地方の報徳社が大日本報徳社に大合同したことである。中央報徳会の「斯民」、大日本報徳社の「大日本報徳」などの報徳社の機関紙には長い年月にわたってその時々の飾らないストレートな報徳活動の反映が見られる。

 日露戦争以降報徳運動は尊徳直弟子から孫弟子の手にバトンタッチされ全国的規模での運動になってくる。即ち明治20年代に「二宮四大人」のうち富田、福住、斎藤が相次いで他界、最後まで健在を誇った岡田良一郎も明治45年大日本報徳社長を辞任、世代は中央報徳会の出発点となった明治38年の東京における「二宮尊徳翁五十年祭記念会」で会長を務めた子息良平(文部大臣)に移っている。この会を契機に発足した中央報徳会活動で、かれら孫弟子たちは講演会や機関紙斯民の刊行などの活動を通じて、それぞれの立場から考える報徳思想を『道徳と経済の調和』・『精神の作興』というスローガンにして普及に努めた。

  代表的な孫弟子でクリスチャンである留岡幸助は斯民第4篇第2号(明治42年)に寄稿した「三周年を経たる予の感想」の中で明治34年から始まった自分の報徳学習の動機を「時の井上内務書記官が海外漫遊を終えて帰朝せられて、大いに社会改善の事業に着眼せられた結果、予に報徳社の事跡の研究を慫慂せられた為、相田君と共に静岡県に出張し、庵原、杉山等の諸村は勿論、伊豆の稲取りを始め、其他同県下の諸町村を巡視した所が、その結果良町村と称せられるところは、必ず報徳の教を実行しつつあると見て、かかる良き教を説いた二宮翁は更に偉大なる人格であったろうと考えたので、静岡の報徳図書館に立寄って報徳に関する一切の書籍を購い来たって、之が研究に着手したのがそもそも予が報徳の教えと二宮翁の人物とを知るにいたった初めである。
・・・・・・「報徳記」と「二宮翁夜話」とには大いに感服するところがあり、時勢にもっとも適切な教であると深く感ずるところがあったのです・・・・・・」と己の報徳への心酔を語り、また同じ論文の中で早川千吉郎の報徳学習について「氏は大学におられる時分から、独逸の信用組合の事などを研究せられ居った。

  氏は実に我国における報徳社のことをもっとも早くから研究せられた人であります。」と協同組合理念の視点からアプローチした人の存在を紹介している。当の早川も産業組合の学習から、報徳がシュルツやライハイゼンの組合と「信用と道徳」を共通の理念としていることに気づいたことを述べて、道徳に基づく信用によって経済が成り立つという彼の持論を展開する。また斯民紙上で当時州立遠江国報徳社社長であった「二宮四大人」の最後の一人岡田良一郎との論争となった「報徳社を信用組合に」と主張した柳田国男が、報徳学習の資料を求めて掛川の報徳社を尋ねる姿も見ることができる。

  直弟子の著作から報徳を学ぼうと努力し、更にそれを社会に還元しようとするひたすらな姿勢をそこにも見ることができる*注13。しかし彼等の運動は天皇制の国家体制が整備されるに従って、次第に国家統制につながる官製の色彩を強く持つようになる。その一つの現れが「地方斯民会」の組織運動である。斯民第3篇第4号掲載の「地方斯民会設置標準」に当時の国家意思の上意下達の様子を見ることができる*注14。 

  また、当時内務省社会局長であった田子一民は斯民第20篇第4号(大正14年4月)に「斯民20年とその回顧」を寄稿、「報徳会の『斯民』は報徳会の主義綱領を広く世に徹底せしめんための雑誌であるが、その主張と事業とは常に政府の進む所と呼応して来た。ありていに言えば政府の当路の主なる人々は報徳会の幹部で、公となり私となり、官となり民となって進んだのである。」と政府の地方改良事業が中央報徳会の手で運営されている姿をその20年の歴史の中で振り返っている。

  これを官民一体となる麗しい姿として素直に喜べないのは、その後の推移を知りうる後世の人間の性であろうか。かれら孫弟子の中央報徳会活動は下からの結社式仕法ではなく、その担い手の社会的立場が政・財・官・学界の指導者であり、運動が全国的に組織化された活動形態を形作っているという意味で『官製』と呼ばれる上からの行政的仕法の色彩の強いもので、それゆえに担い手の社会的地位の向上につれてその色彩も強まってゆくことになる。大日本報徳社八木繁樹氏の「報徳運動百年の歩み」記載の大日本報徳社年譜には明治40年の欄に「此年 夏ごろから中央報徳会を通してする官製報徳社結成運動が全国に普及昂揚し、明治23年(1890)396社だったものが悠に700社を超えるにいたり、報徳社全盛時代に入る。一方、この頃から報徳社大合同の機運が次第に高まり、ついに大正13年(1924)全国報徳社大合同を迎えるにいたる」とある。氏もこのときの報徳運動を「官」、即ち上からの行政的仕法と捉えている。

 留岡幸助が斯民三周年に際して、財政上の援助者として鈴木藤三郎、早川千吉郎始め主だった会員の名を挙げてその財政的援助に感謝の意を表しているように、会費、斯民の購読料、会員の推譲金等で賄われている中央報徳会は、財政的には下からの結社式仕法、活動は上からの行政式仕法という半官半民の性格を持つ。中央には半官半民の中央報徳会、地方には伝統的な結社式報徳社と中央報徳会支部としての官製報徳社が組織されるという構図である。

  こういった時代の風潮の中で報徳思想は次の世代に引き継がれてゆくことになるのだが、次の世代はまだ孫弟子と同居するかたちで共に現代報徳を形作ってゆく。次の昭和の時代、大日本報徳社の二宮尊徳全集の刊行(昭和元年〜昭和7年)があり、また、昭和恐慌時の自力更生運動の全国的展開がある。これから述べる小平権一はこの時期の代表的報徳の語り部である。






 
U.昭和農村恐慌時における報徳仕法
U−1.昭和農村恐慌の時代と小平権一

 先第1次世界大戦は日本資本主義の発展を促したが、それは長い経済不況を伴っていた。今、時系列的に経済恐慌の節目を追うと以下のごとく1920年の不況を脱しきれないままに世界不況の波に飲み込まれていることが分る。

1920年(大正9)第1次世界大戦後恐慌始まる、
1923年(大正12)関東大震災による不況
1927年(昭和2)金融恐慌始まる、         
1929年(昭和4)世界恐慌おこる、
1930年(昭和5)金解禁実施、昭和恐慌始まる 
1931年(昭和6)農業恐慌深刻化、金輸出再禁止


 この長期間の経済不況の嵐は日本社会に甚大な被害をもたらしたが特に農村においてはその影響はより深刻であった*注15。 この状況から脱出するため官民挙げての懸命な努力が各地で展開された。兵庫県農会は全国に先駆け昭和2年から挙村的基本調査とそれに基づく振興計画の樹立の運動を県下で展開した。それは後に自力更生運動と名づけられ昭和7年の全国への呼びかけへと発展する。また静岡県では県の要請を受けた大日本報徳社が報徳社を中核にした土方村仕法を展開するなど各地各様の運動が展開されている。これらの活動を受けて、昭和7年9月農林省に新に設置された経済更生部を中心に自力更生運動が全国的に展開された。

 幕末為す術も無く荒廃するがままになっていた農村を見事に復興した報徳仕法は、近代社会になっても見通しも立たず有効な対策も見出せない経済不況のたびに思い出されてくる。*注16 
昭和農村恐慌の時も例外ではない。報徳理念が当事者を支えることになる。時の政府は、民間で自発的に行われていた不況脱出の諸活動を吸収する形で行政を展開した*注17 。

  当時日本は社会混乱の真っ只中にあり、1931年には三月事件、十月事件が起こり、翌昭和7年には血盟団事件で井上準之助、團琢磨が暗殺、さらに5月15日の犬養首相殺害と、後にファシズム体制形成上の諸事件といわれる血腥いテロが横行した。この流れはやがて昭和11年の2.26事件、翌12年の日中戦争へと日本を破滅への道を辿らせることになる。それは農村の疲弊が原因で、農政担当者の苦慮する問題と同根であった。世界的な不況の嵐は日本全土を巻き込んだが、一般物価と農産品物価のギャップは農村生活をより悲惨なものとした。 

 小平権一は犬養首相暗殺のあとを受けて組閣された斎藤実内閣の農政を支えた農林大臣後藤文雄、農林次官石黒忠篤、と共に経済更生部長としての三人グループの一角を構成する。
彼の報徳受容を理解するために農商務省の役人になるまでの略歴を本家の小平徹氏に見せていただいた資料などから見ておくことにする。(徹氏は農林中金にお勤めである。彼の曽祖父が権一氏の父の長兄に当たる関係で、幼い頃から権一にかわいがられ、農林中金勤務に際し、親戚の中で自分と同じ道を歩むたった一人の後継者と喜んでくれたという。小平権一の子息邦彦氏は数学のノーベル賞といわれる「フィールズ賞」を受賞された世界的数学者である。)

 小平権一は、明治17年(1884)1月諏訪郡米沢鋳物師屋で小平邦之助・はつ の長男として出生。明治36年(1903)諏訪中学卒、第一高等学校工科入学、翌年農科に転学。明治40年(1907)3月本郷協会で受洗(牧師、海老名弾正)。明治43年(1910)東京大学農科大学卒業、(卒業論文小作論)、引き続き同法科大学に学び大正3年(1914)卒業、念願の農商務省に就職した。この間1912年3月、中学時代の同級生金井清の妹「いち」と結婚、同11月高等文官試験合格。

 彼の高等学校入学から農商務省入省までの遍歴には不明なところが意外と多い。彼が合格した工科から1年留年して農科に移籍したのはなんだったのか。この1年は全くの空白である。以後の権一に大きな影響をもたらしたといわれる内村鑑三はこの頃日露不戦、戦争反対意見を公表しているが、このことと関係は無いのか。また明治39年から大正2年(1906〜1913)の期間新渡戸稲造が一高校長となり、自宅を学生に解放、自宅ゼミナールの如き観を呈する。この時期はちょうど権一の高校、大学在学中と重なる。内村や新渡戸の周りに後世日本を代表する俊秀が集まっており、その中に彼と親交厚い名前を見出すが彼の活躍ぶりは伝わってこない。新渡戸稲造は自著「農業本論」の中で指摘した「地方学」の必要を第二回中央報徳会例会で講演した。それに触発された柳田国男たちは学習会「郷土会」を組織、柳田国男をリーダーとして新渡戸稲造の自宅で毎月1回のペースで研究発表会を行なっている。

  この会の出席メンバーの中に後に農村恐慌時に農山漁村経済更生運動を推進した3人、石黒忠篤、那須皓、小平権一の名も挙がっているが、権一がここでどのような活動( 論文発表とか、思い出話の類なども含め)があったのかは不明である。ここでは権一がこの時期内村鑑三、新渡戸稲造を通じて多くの友人知己と結ばれたことと、権一に勧められて新妻いちが内村の聖書研究会に熱心に参加、女性の研究グループ「モアブ婦人会」の終身会員となっていることを指摘するにとどめる*注18

 大正3年(1914)7月25日東京帝国大学法科大学を卒業した小平は、同7月31日農商務省入省。おりしもこの年官庁は緊縮財政下にあり、高文合格の資格を持つ彼でも希望する農商務省への就職は困難だった。強力な紹介者の援助でやっと念願の農商務省に採用されたが、定員が空くまで当分の間無給嘱託扱いという厳しい条件付であった。

  しかし彼は初一念を変えようとはしなかった。この年4月小平は郷里への手紙に中で卒業後の進路につき「小生本来の希望に之あり候農民の救済てふ目的は決して離れぬ様に致したく存じ居り候・・・・・・」と書き送っている。農、法二つの学位を取得しながら、無給の待遇に甘んじても宿願の「農民の救済」を追及しようとしたのが後の農村恐慌を乗り切る行政の中心人物となった小平権一の出発点であった。大正3年11月18日「任農商務属 給 六級俸(45円)」の辞令を受けた。


 中央報徳会は明治39年日露戦後の経済不況とそれにともなう社会の道義の乱れの克服を目標に「道徳と経済の調和」を共通標語として発足した。その機関紙である斯民の編集方針は社会全体を視野に入れた広範なもので、創刊号の会告に掲載されている掲載事項と執筆予定者(分担者)は多彩である。掲載事項には「経済及び産業に関する事項」と並んで「農業信用機関其他共済組合に関する事項」も挙げられており、その範疇の執筆予定者に小平権一とは知己の「郷土会」のリーダであった柳田国男の名も見える。

 小平の月刊誌「斯民」への寄稿は意外に早い。入省翌年の1915年(大正4)に早くも斯民に「九州における特殊なる農村施設」という産業組合の活動を紹介する紀行文を皮切りに、続けざまに5編の同種の紀行文を載せている。(斯民第9編11号〜第10編4号)
彼の斯民の出発点は模範的な農村における産業組合*19の組織的経済活動を紹介することから始まった。以来1939年(昭和14)1月の「農業報国運動と日満支農業調整」で斯民への寄稿は終わるが、それまでの24年間に合計47篇(内、大正年間は23篇)の論文を斯民に発表している。(著作目録によると小平権一生涯の論文著作は業務報告を含めると396篇を数える)。彼の「時、所、位」に基づく報徳活動はこの時点から一貫して産業組合による農村経済の近代化の追及の形をとる。大正年間においてすでに産業組合機関紙へ25篇に上る寄稿を通じて産業組合活動強化による農村経営の合理化呼びかけをしている。

 大正11年(1922)農務課長、13年(1925)産業組合中央金庫参事(出向)、15年(1926)農政課長と日本の農業行政の要職を歴任、昭和に入って昭和2年米穀課長、昭和5年蚕糸局長を担当した後、昭和7年(1932)9月新たに設置された農林省経済更生部長の初代部長に就任、その直前の昭和7年8月「農業金融論」で博士の学位を授与されている。

 この激務の中で、彼は課せられた職務の問題やその解決の方針、理念等を斯民紙上で解説している。現在、我々はインターネットで農林水産省のメールマガジンや「食料・農業・農村白書」を通じて農政の現状を知ることができるが、小平権一が農政を担当していた当時は、このような斯民への執筆活動や講演活動に依るしかなかったであろう。彼はそれを几帳面に実行した。そこには昭和農村恐慌の経済政策策定に際して思考された思想が率直に語られている。*20この時期報徳をどのように受け止めたか。

 第63臨時議会(救農議会)に際して斯民に発表されたのは、8月の「農村対策の基調」と10月の「臨時議会に成立したる各種の農村対策」の2編である。農村対策の基調には、兵庫農会の主張をふまえ「自力更生」を政策として推進する方針を打ち出したものになっている。

 ここに示されたものは農林省で米穀課長、蚕糸局長主としてこれまで小平が主張してきた農村の本来の共存同栄、相互扶助という自力主義の覚醒と、それぞれの農村計画の必要、特にそれを実行する機関としての産業組合の新設、強化である。小平は家の光昭和8年1月号にも「農村の経済更生は産業組合で」と題して、「農家永遠の幸福をもち来たそうとするには、農村の経済の組み立てを根本から立て直すことが必要で、この為には産業と経済の機関である産業組合を中心に活躍させねばならない」とし、農村の持っているゲマインシャフトの特質を近代的システムに活かすために全農民の産業組合加入を呼びかける。零細な経営を特徴とする日本農民が大企業に経済的に伍して将来の生活安定を得るためには、産業組合の「隣保共助」の体制が必須条件であった。
 
 徹底した農村社会の構造改革を産業組合の手で達成しようという小平権一の考えは、石黒や那須と共に語り合う中で培われたものであった。東大教授で年来の友、那須皓は農村経済更生中央委員会の委員であったが、3人はしょっちゅう会って意見を交わしたといっている。那須は後に経済更生運動の理念を問われて 「協同組合主義」と答え、「この運動は政府の旗振りだけではダメで、民間が之に力を合わせて官民一体でやらねばならぬという認識があった。」と言っている。小平の中では、キリスト教から出発して 報徳思想―協同組合という理念の連鎖になっている。そうしてその理念は零細経営に悩む農民を救うという初一念につながっているのではなかろうか。
小平権一の眼前には緊急課題としての「借財の返済問題」と、腰を落ち着けて取組まなければならない日本農村の「構造的改革」があった。斯民に寄稿した昭和8年7月の「農村経済更生計画と負債整理」、9年の「経済更生第三年に向かふの覚悟」、10年「報徳思想と農村更生」と続けて、小平は報徳思想の必要場面を語っている。

「負債整理組合」のこと
『農家の借財は総計45億円、1戸当たり平均960円である。この借財の存在は、経済更生計画樹立の気をそいでしまう。この解決法に悩んでいたとき、後藤大臣が報徳仕法の負債整理でやってみることを提案した。借財はそれまでの消費経済なり生産経済なりの結果で、それをそのままでは負債は返せない。

@ 先ず農家の更生計画を立て、それを実行することを負債整理の条件にする。
A 償還計画を立てそれを誠実に必ず実行する。
B 債権者と債務者が助け合って負債を整理する。
C 隣保共助して、部落の人が一緒になって、金を借りている人も借りていない人も親戚、友人一丸となり負債整理団体を組織、お互い責任持って負債整理して行く。

 この考えに基づき「負債整理組合法」ができた。この法律の第1条に負債整理組合は、隣保共
助の精神によって部落民の経済更生をするということを骨子として負債整理をすると謳ってある。それで負債整理組合法は農家の更生計画、償還計画、債権者債務者の歩み寄り、この3つが法律上の条件となっている。また国の援助は負債の肩代わりに使うことは許されない、償還計画推進のための頭金ていどのもの、ということで45億円に対したった2億円の低利資金を5カ年間に融通するだけ。之は全く二宮先生の仕法から考え出したことである。 経済更生計画は実行する段になると非常に難しい。特に人と人との関係が非常に難しい。人と人とが譲り合うということがないと難しい。たくさんある団体間の統制が難しい。二宮先生の教えを現場が会得するならば、農村経済更生計画進行上裨益するところすこぶる多大であろう。』


 この計画策定のプロセス説明するなかで小平は「その他農村経済更生計画は先頃来二宮先生の考え方をよほど取込んで私共の方でも考えたのである」といっている。ここで言う「私共」は後藤、石黒、那須、橋本、たちの面々であろう。私は行政担当者たちが実践の集団討議の場に報徳思想を持ち出し検討していたことに注目する。小平の報徳学習はこのようにして磨かれていた。
昭和10年の尊徳没後80年に際し小平権一は「報徳思想と農村更生」という報徳思想が現代にも形を変えて生き続けているという短い論文を書いている。この中で小平は産業組合と報徳の関係について「道徳と経済の調和」という点に理念の一致を見出している。

 『今日の時勢に於いては個々の力を以てはなし得ないことが多い。どうしても隣保相助け、協力一致して其の経済を更生しなければならぬ。隣保相助け共々によりよく生きることは最も望ましいことであって、所謂相互扶助、共存同栄の実を挙げるには、道徳と経済の調和が其の基調とならねばならぬ。産業組合の如きも、其の根本精神は此処にあるのであって、単なる経済団体営利団体ではない。』

このレポートを小平権一 「報徳思想と農村更生」(斯民第30編10号)の全文を以って終わることにする。


 
 

T.田園に生まれ田園に生活し、一世の偉人と仰がれる二宮尊徳先生が逝かれてからすでに八十年になるが、二宮翁の遺教たる道徳と経済の調和、翁が努力された難村復興の跡などは、今日農村の更生を図る上に於いて大いに学ぶべく、採って以て範とすべきものが非常に多い。勿論二宮翁の時代と今日とは、時代の隔たりがあり、社会経済状態も著しく異なっている。従って翁の難村復興と今日の農村更生との間には、時代の背景が異なると同時に、其手段方法も決して同一ではあり得ない。

 しかしながら、、二宮翁の思想は、八十年後の今日に於ても、農村経済更生運動の中に力強く動いている。加之、全国五千有余の経済更生指定町村中には、報徳社があって優良な更生成績を示しつつある町村も少なくない。
 斯様に二宮翁の報徳思想は、農村経済更生運動の中に生々躍動しているが、此処にはその二三について述べることとしよう。

U.二宮翁は畢世人に教うるに徳に報いるの道を以てし、道徳と経済の調和を強調し、而かも之を実行された。今回の農村経済更生が、我国固有の美風たる隣保共助精神を経済生活の上に活用し、以て農村の更生を図らんとするのは、この道徳と経済の調和を基調としたものと観ることが出来る。この隣保共助ということは、自分さえ都合が好ければ他は如何でも構わぬというような利己的妄動とは大いに趣を異にする。又左様なことでは農村の更生は期し得られない。

  今日の時勢に於いては、個々の力を持っては成し得ないことが多い。どうしても隣保相助け、協力一致してその経済を更生しなければならぬ。隣保相助け共々によりよく生きることは最も望ましいことであって、所謂相互扶助、共存同栄の実を挙げるには、道徳と経済の調和が其の基調とならなければならぬ。産業組合の事業の如きも其の根本精神は此処にあるのであって、単なる経済団体営利団体ではない。今回の農村経済更生に於いて、隣保共助の精神の活用、産業組合の活動、村内民心の融和、各種機関の連絡協調等が大いに強調されているが、これらは道徳と経済の調和を基調とした一表現だとも見ることができよう。

 また二宮翁は、難村復興安民の仕法を行なうや、大小となく始めに終わりを察し、必成を洞見してしかる後実行に着手された。今回の農村経済更生計画は、先ず基本調査を行い村の全貌を明らかにし其の欠陥を知り、村内の実情に即した適当なる実行可能の計画をたて、之を実行せんとするものであって、二宮翁の難村復興の仕法と相通ずるものがある。

 更に又二宮翁は「荒蕪を開くは心田を開くを先とす」と説かれ、其の通りに実行されたが、今回の農村経済更生に於いても、村民の精神作興、農民精神の振作が強調されている。如何に農村の経済を更生せんとしても、村民の精神が狂っていては何事も出来ない。経済更生は精神更生と相俟たなければならぬ。精神と経済とは一にして二、ニにして一である。

 世には農村経済更生運動を目して、それは単なる物質の問題、経済の更生であって精神的要素が欠けていると難ずるものがあり、又逆に経済更生運動は精神運動に過ぎないと批難するものも無いではないが、これ等は其の一面のみを観た偏見ではあるまいか。農村経済更生運動は精神と経済とが渾然一体を成して進展しつつあることを見逃してはならぬ。

 以上の外、二宮翁は分度生活を極力提唱し実行されたが、今回の農村経済更生における農村生活の改善、予算生活、記帳の励行の如き、負債整理の如き、之亦分度生活の実行なくしては出来ないことである。

 この如く今回の農村経済更生には、二宮翁の遺教がよく当てはまるものであって、以上は単にその二三を列挙したに過ぎないが、尚二宮翁が難村復興に苦心努力され、如何にしても目的を達成せずんば止まずという確固不動の決意を以て事に当たられたように、農村更生を実現するには、百折不撓の努力が持続されなければならぬ。二宮翁夜話の一節に曰く― 吾神代の古に、豊葦原に天降りしと決心し、皇国は皇国の徳澤にて開くこそ、天照大御神の足跡なれと思い定めて、一途に開闢元始の大道に拠りて勉強せしなり、それ開闢の昔、葦原に一人天降りしと覚悟する時は、流水に潔身せし如く潔きこと限りなし、何事をなすにもこの覚悟を極むれば、依頼心なく、卑怯卑劣の心なく、何を見てもうらやましきことなく、心中清浄なるが故に、願いとして成就せずという事なきの場に至るなり、この覚悟、事を成すの大本なり、我悟道の極意なり、此の覚悟定まれば衰村を起すも廃家を興すもいと易し、只此の覚悟一つのみ ― と。

  この千里独往の大気迫こそ、農村経済更生、自力更生の大精神であり、農村経済更生運動を無限に発展せしむる推進力たるであろう。


V.二宮翁は、廃家を起し衰村を復興するに止まらず、国家盛衰の根源を明らかにし、興国安民の大道を説かれた。而して農村更生運動もまた、個々の農山漁家は勿論、一部落より一村へ、一村より一地方へ、一地方より全国的に其の経済の根本的建て直しを断行し、以って我国家の永遠に動かざる基礎をかくりつせんとするものである。


 輪が農山漁村は、数年来未曾有の不況に直面し其の生活は極度に窮迫したけれども、一度、農山漁村経済更生運動が開始せらるるや、旺盛なる更生精神が全国各地に燃え上がり、経済更生計画指定町村は、今日五千五百有余に上り、全国町村数の半以上に達し、其の経済は漸次好転せんとしつつある。

 然しながらこれを以って我が農山漁村が永遠の反映を約束づけられたと観ることは出来ない。更に一層懸命の努力を以て、其の更生に協力邁進しなければならぬ。此の秋にあたり、二宮翁の報徳思想は。農村経済更生運動の進展に、其の実効の確保に、一層大なる働きをなすであろう。

 二宮翁の「皇国は皇国の徳澤で開く」の報徳思想は、小にしては小経済に於ける一家更生の原理であり、難村復興の根本原則である。村内に遺された自然に目を着け、其の遺利を利用し、一握の青草も之を家畜の飼料とし、一塊の馬糞も堆肥の原料とする計画が樹立され、協力一致此の農村非常時難関突破に努力すべきである。貨幣、信用経済の極度に発達して今日に於いても自給自足時代に遺された二宮翁の報徳思想、難村復興の仕法が今日の農村経済更生に力強く働きかけていることは、其の思想、其の実行が如何に超時代的に偉大であるかを証するものであろう。

 二宮翁の思想と実行の跡は、仰げば仰ぐほど其の偉大さに打たれざるを得ず、独り農山漁村経済更生運動のみならず、我国現下の実情に鑑み、曠古の難局を打開し、国運の発展隆昌を期する上に於いても大なる力となるであろう。二宮翁八十年祭記念会に際し、所感の一端を述べて翁を偲ばんとする次第である。


[注]
*注1
 時の政府が打ち出した農山村経済救済政策の名称「農山村経済更生」の原型は、兵庫県農会が「農会是設定」の名称で展開した農村産業計画樹立設定事業の中で全国に発信されたスローガン「自力更生」である。

*注2 私は小田原の報徳ゼミの仲間と元古谷報徳社社長宮城正雄さんの「農地の荒廃を座視するは人道の大罪である」という呼びかけにこたえ、荒地をなくそうと彼の下に集まった。個々人が「農地が荒廃してゆくのを見過ごしてはならぬ」というメッセージの中に現代における報徳思想の発露を見たのである。農業に関して私はまったくの門外漢ではあったが、宮城氏の熱意と学習中の報徳思想とが相乗するかたちで、せめて会の事務連絡にでも貢献したいとこの運動に参加した

*注3 粉川宏著「国定教科書」(新潮社選書)付録「国定教科書(国語・修身)に登場する人物100一覧表」による。
登場頻度順位 代表的日本人氏名 教育書科目 教科書徳目
2位 二宮金次郎 修身 孝行
5位 上杉鷹山 修身 産業
18位 中江藤樹 修身 徳行
50位以下 西郷隆盛 ―

記載なし 日蓮上人 ―
                                            
*注4 芥川龍之介 「侏儒の言葉 ― 二宮尊徳」には押し付けられた道徳規範に対する反発が見られる。

*注5 宮城正雄著「二宮翁夜話と私」。  「双松学舎顕彰記念誌 沿革概記並略歴」によると 同学
舎は明治24年10月許認可、明治期の教科科目は「修身漢文を主軸として、国文作文習字珠
算と村塾の形を受けたが、時代に沿って地理歴史理科農学数学とさらに英語をも加えた、そし
て最後に報徳の一科を新たに設けた。教科書は孝経、小学、日本外史、十八史略、大学、論
語、孟子、千字文と伝来の古典を主としたが、出版界の情勢に従い当時の中等教育教科書を
総て用いた。報徳科は報徳記、二宮翁夜話、報徳外記を採用した。」とある。この伝統は舎主橋
本鶴堂の信奉する日本弘道会の皇室を中心に置く忠君愛国の精神と共に大正,昭和の時代に
も受け継がれた。卒業生は明治24年から昭和35年までの70年間に5,432名を数える。昭
和6年の名簿に宮城正雄の名がある。双松学舎については堀内良著「大日本報徳社小史」に
詳しい記述がある。

*注6 福住正兄の「富国捷径」・「二宮翁夜話」、富田高慶の「報徳記」、斎藤高行の「報徳外記」の出版、報徳社の結社などがそれだ。また岡田良一郎は「活法経済論」など多くの著作を世に出しさらに機関紙「大日本帝国報徳」を出版している。初期の下からの結社活動に大きな功績のあった人として上述の四大人のほかに安居院庄七、浅田有信、福山滝助等の名が挙げられる。
 八木繁樹著 「報徳読本」 第29章 「後につづく人々」より


*注7 結社方式について冨田高慶との違いを問われて福住が答えたのに『それは時所位の違いによって、学んだことが違うからだ。冨田・斎藤の諸氏は、旧相馬の藩士で、この道を相馬の領国に行おうと修行したものだ。私は平民だから、この道を平民社会に行おうと修行したのだ。師,二宮翁の教え方もそれぞれの志のありかを察して、富田には上から下に施す方法を教えられ、私等には下にいて朋友相結んで行うように教えられた。・・・・・・・
     福住正兄 富国捷径 現代報徳全書 「行正式仕法と結社式仕法」


*注8  明治23年(1890年)末の内務省調査による全国の報徳本社とその所属する報徳社数
遠江国報徳社 164社、駿河国西報徳社 31社、多田報徳社 1社、三河国報徳社 34社     
甲斐国報徳社 3社、報徳遠譲社 92社、駿河東報徳社 28社、相模報徳社 35社、
伊勢国報徳社 9社            堀内良著「大日本報徳社小史」72ページ


*注9 人類の教師: 和辻哲郎は著書『孔子』の冒頭、「釈迦、孔子、ソクラテス、イエスが『世界の四聖』と呼ばれているのは彼等が『人類の教師』であるからだという。なんとなれば「いついかなる社会の人々であっても、彼らから教えを受けることができるからである。」とし、さらに彼等が共によき弟子を持っていることを指摘する。「人類の教師が人類の教師と成るのは一つの大きい文化運動である、・・・・・・それは他の言葉で言えば一つの高い文化が一人の教師の姿において結晶してくるということなのである。この結晶の過程のうちには前に言ったように弟子たちの感激や孫弟子たちの尊崇や,さらにその後の時代の共鳴・理解・尊敬などが、数限りなく加わってくる。これは教師の感化が真正であったからこそ時の訓練に堪えて増大して来たのであるが、しかしまた感化を受けた弟子たちが常にその教師の優れた点、感ずべき点に注意し、そうしてそれらの点をより深く理解しようと努力したことにもとづくのである。これは通例『理想化』と呼ばれている過程であるが・・・・・・」と四聖人が文化運動によって人類の教師に成長してきたものととらえ、その運動過程における弟子たちの存在の重要性を説明している。                                     
和辻哲郎 「孔子」 岩波文庫

*注10 次の孫弟子の時代の活動になるが、中央報徳会の地方支部を「地方斯民会」と称して行政区域単位に全国的に組織する活動があった。その「地方斯民会設置標準」として次のように当時の斯民誌上に告示している。「目的:本会は教育勅語の御趣旨を遵奉して精神訓育を奨め広く道徳と経済との調和及教育産業の発達地方自治の作興を期すを以って目的とす」
(斯民第3編第5号)



*注11 内村鑑三の「代表的日本人」再刊の序文。(1908年1月8日)。戦争が醜い国家利益の争奪戦と知った内村に対する日本社会の冷遇は甚だ厳しいものがあった。しかしこのころ彼の周りにはキリストを信奉する若き学徒がグループを作り彼から学んでいるのである。志賀直哉の日誌には明治37,8年当時毎日曜日鑑三を訪れ、鑑三の非戦論に心打たれる若き日の直哉の心模様が描き出されている。                         志賀直哉全集 第10巻  岩波書店

*注12  二宮尊徳翁五十年記念会発起人
岡田良平(貴族院議員)、早川千吉郎(三井銀行専務理事)、一木喜徳郎(法学博士)、
久米金弥(農商務省山林局長)、桑田熊蔵(法学博士)、鈴木藤三郎(日本精製糖社長)、
田村武治(日本精製糖取締役)、井上友一(内務書記官)、、留岡幸助(内務省嘱託)
    清野長太郎(内務省地方局市町村課長)         雑誌『斯民』目次総覧 より 



*注13  報徳に関する著書の普及 佐々井信太郎著 二宮尊徳伝 p.591より 
明治23年(1890)以前 明治39年(1906)以前 大正14年(1925)以前 昭和9年(1934)
以前
単行本 14冊 42冊(年3冊) 92冊(年5冊) 53冊(年6冊)
論文 ― 196篇(年11篇) 374篇(年19編) 272編(年30編)



*注14 地方斯民会設置標準
近来各地方に市民会設置の希望を抱けるもの多し。よって之が設置の標準とすべきものを、茲に掲げて。大方の参照に供す。
目的
1.本会は教育勅語の御趣旨を遵奉して精神訓育を奨め広く道徳と経済との調和及教育産業の発達地方自治の作興を期するを以て目的とす
1.本会員は左の個条を以て規範とすべし
  1.忠君愛国義勇奉公の思想を涵養すること
  2.至誠を以て本となし、勤労を以て主となし能く分度を守り以て推譲を為すこと
  3.協同一致を以て公私の事に当たり立徳致富の実を挙げ克く相互に救済をなすこと
  4.納税其他公の義務を重んずべきこと
事業    1 〜 9(省略)
設置区域 1.設置は県、郡、又は町村自治区と同一ならしむること
資金    1〜2 会費等(省略)
   集会
   1.会員は毎月1回集会をすること
   1.毎年1回通常総会を開くこと
   1、臨時必要の場合に臨時会を開くこと

*15  

 昭和農業恐慌概況          
年次
大正14年
(1925年) 農林水産物生産総価格及指数 米価及米価指数 一般物価指数
実数 百万円 指数 実数 円 指数 明治33年100 大正14年100
大正14年 5,030 100 41.65 100 266.8 100
昭和元年 4,343 87 37.76 90 236.7 88
同 2 4,305 81 35.43 84 224.7 84
同 3 4,013 80 31.36 74 226.1 84
同 4 3,996 80 29.33 69 219.8 82
同 5 2,787 56 25.89 61 181.0 67
同 6 2,373 47 18.59 44 153.0 57
同 7 2,750 55 21.22 51 161.1 60
同 8 3,390 68 21.54 52 179.5 67
同 9 3,120 62 26.22 62 177.6 66
同10 3,589 71 29.82 71 185.5 69
同11 4,125 82 30.66 73 197.5 74
同12 4,678 93 32.52 78 238.2 89
同13 5,005 99 34.39 84 257.3 94
同14 7,365 146 37.42 91 277.5 104
同15 8,913 177 ― ― ― ―
                     農村経済更生運動を検討し、標準農村確立運動に及ぶ  小平権一
(農林水産物の総価額は、昭和6年には大正14年の47%、また昭和6年の米価は大正14年比44%、一般物価の同年比は57%、 一般物価とのギャップがそれだけ農村の疲弊を深めている。)

警鐘を打って農民諸君の奮起を促す    埼玉県 佐々木辰二郎
「吾々は飢えるわれわれは呻く吾々は悶える吾々は黙って働いて苦しんで居る煩悶の姿苦悩の姿は実に現日本農民の吾々の姿であります我々農民は朝〜播磨で働く失業者であります吾々の生産する玉菜は50個で政府の売る敷島1個の値段で市場で取引されます蕪菜は百把なければバット一ツ買うことが出来ません繭6貫目拾円大麦三俵拾円であります肥料代と税金を差し引きまして何が残りますか而して税金も減りません酒もタバコも汽車賃もハガキも切手も下りません下落したものは吾々の生産するものばかりであります吾々はこのままでは税金を納めるに先祖伝来の田畑を売るより外はありません(中略)・・・ わたしはこれを識者政治家に訴えて吾々が働けば樂に生る様にせねばなりません政府は国民を強制する権力を持っています政府は此の権力を持って物価を引き下げ為に吾々が働いても働いても欠損しているのであります吾々を苦しめてもらうために其強制する権力を与えたのではありません吾々の生命財産の維持と吾々生活の安定を保証せしむる為に吾々は吾々国民を強制する権力を政府に与えました然るに政府はこの権力を用いて7千万国民の7割を占める農民をして牛馬の如く働くべき運命の失業者にして其の疲弊困憊を顧みぬとは吾々は黙って苦しんでいることが出来ますか(中略)・・・吾々農民が黙々として苦しんで先祖伝来の田畑を売って自滅を待つのが立憲国民としての義務を全うするものでしょうか吾々自滅して国家が隆盛になりましょうか吾々農民の自滅が国家の自滅であります故に私は吾々農民が起って農民瀕死の惨状を訴え世論の力によりて農民の福利を増進し国家の隆盛を図るべく昭和維新の政治に貢献し・・・  」


               
*16 報徳運動は報徳主義における「 勤労・分度・推譲・至誠」等の徳目が、不況時において、国家の財政的補助にたよらないで −たよらせないでー 自らの勤勉・努力により苦境を打開していく農民を育成するものとして期待されたといえよう。時期的にいうと報徳運動は、松方デフレ下の農村の不況窮乏化の時期・日露戦争後の不況期(地方改良運動期)・そして昭和農業恐慌を機に開始された農山漁村経済更生運動下の三期に新たな展開を見た。
野本京子「農山村経済更生運動下の報徳運動 ―埼玉県秩父郡久那村の事例研究を中心に― 

 
  
*注17 「農山漁村経済更生運動は、昭和7年秋から9年間にわたって全国的に展開された。それは昭和初年の農業恐慌にともなう農山漁村の深刻な社会的・経済的混乱を再建することを目的とする行政補助金と低利財政資金を手段とした政府の農林=地方行政である側面と、民間における社会運動としての側面との複合的な性格を持っている。行政施策でありながら、「運動」として捉えられる二面性を持っている。言い換えれば、「運動」という名称を持った特異な行政である。
                      農山漁村経済更生運動と小平権一 楠本雅弘編・著


*注18
 新渡戸稲造の「地方学」の講演内容は、斯民第2編第2号に速記録として掲載されている。そ
ここには文字になっていない農村の庶民の生活を拾い上げる新しい手法の必要が説かれている。
尊徳には之に通じる思想がある。「声(おと)もなく臭(か)も無く常に天地は 書かざる経をくり返しつつ」。
新渡戸稲造の地方学は内村鑑三の「地人論」に刺激を受けたものとの説あり。
 地方学については農村更生協会発行 那須皓先生―遺文と追想 中の「那須先生の話を聞く会」における口述記録 (文責斎藤誠)および、笹山登生ホームページによる。小平権一は内村の総てに厳格な姿勢に対しやや距離を置いて接していたようであるが、妻いちは純粋に内村に私淑していたようだ。いちが敗戦後東京大空襲で消失した我が家の焼け跡に立ったとき歌った詩がある。
焼跡に我立ちて しばし眺めぬありし日の おもかげをしのびつつ そぞろに思い走らせぬ
二十余年のその昔 主夜な夜な設計し 故郷の林を切り出して 建てたりしあの我が家
大震災のあと故に ただ耐震を目的と 見る目おかしき家なれど 長き年月住みたれば
千々の思ひ出湧きいでて なつかしき事限り無し 我がしたわしき姉妹達 折々集い語らひし
  内村鑑三師の君も ここに来給いひみ教えを 垂れ給ひし事幾たびか・・・・・・
「小平権一と近代農政」より



*19 協同組合について:我国協同組合の発展史をたどると、ロッチデール公正先駆者組合と相前後して設立された大原幽学の先祖株組合、二宮尊徳の仕法組合(報徳社の前身)が共同運動の実質的草分けと位置づけられているが、近代的協同組合の起源としては、品川弥二郎、平田東助等官僚主導による信用組合構想と、その延長線上で1900年(明治33)に実現した産業組合制度があげられよう。上からの官僚的に創設された産業組合は急速に全国的に拡大し、大正デモクラシイの洗礼を受けて、昭和初期の興隆期を迎えたが、太平洋戦争末期には、統制団体である農業会に統合された。                      
荷見武敬著 「協同組合学ノート」 家の光協会出版


*20 小平の経済更生部長の時期における斯民掲載の論文は下記の通りである。
昭和 7年 8月 : 農村対策の基調
10月 : 臨時議会に成立したる各種の農村対策
昭和 8年 8月 : 農山漁村の経済更生計画(上/下)、農村経済更生計画と負債整理
昭和 9年 1月 : 経済更生第3年に向かう覚悟
9月 : 農山漁村の健康療法(上下)
昭和10年10月 :報徳思想と農村更生
昭和11年11月 :農村経済更生と農事実行組合
6月 :農山漁村経済更生特別助成施設
昭和12年    :寄稿なし (7月7日「日華事変」起こり日中全面戦争突入、9月入院)
昭和13年 4月 :地方自治と農業の振興