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| 第20回 バスクとモンドラゴン協同組合 〜「社会的企業」という経済システム 〜 |
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2009年4月例会 幹事:野口 幹夫 |
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| 1.スペイン戦争とバンクの受難 バスクはスペイン北西部とフランス南西部に跨っている四国に大阪府を加えた程の面積で、人口300万人弱の地方である。南バスクの7州はスペインに、北バスクの3州はフランスの属しているが、スペイン側の各州はいったいとなって自治州を形成してある。もともとバスクとして一体だったものが、1659年ルイ14世の時代に新に国境線が敷かれて、バスク人の知らないところで2つに分割された。これが今に続くバスクの悲劇の始まりと云われている。バスクには旧石器時代から人が住んでいて、先祖はネアンデルタール人とも云われている。原始バスク人が住んでいた洞窟に遺跡は60箇所も現存している。バスク人は長い歴史を通じてどの国にも征服されず、周囲に同化することなく独自に文化を守り育ててきた。バスク語はその典型である。 バスク語はスペイン語やフランス語とは全く違った言語で、ヨーロッパ人が学ぶのは非常に難しいと云われている。バスク地方では道路標識などもスペイン語(カスティーリア語)とバスク語が併記されている。バスク人は生来民族心と独立心が強く、それが今日まで脈々と続いて困難に耐え抜く伝統になっているのであった。 スペインでは何度か王制を廃止が模索されたが、実際に成功したのは1931年のことで、隣のフランスに比べると随分遅れている。各種に左翼政党から右派政党まで加えた統一組織で王制を廃止して共和制の政府を作ったものの、反革命の動きが起きて国内を2分する戦争になった。これに対して労働者、知識人などが革新政党とともに人民戦線を結成して戦ったが、フランコ将軍を中心とする軍とそれを支援したナチスドイツとイタリアの攻撃を受けて敗北した。この戦争でバスク人は、バスクの独立を賭けてフランコ軍に対峙した。バスク自治憲章に基づいて「バスク自治政府」を組織し、その存続と独立を求めて最後まで勇敢に戦った。戦闘と空爆による死者26,000人、重傷者50,000人、銃殺などによって殺害された物22,000人、それに投獄されたり、亡命を余儀なくされた人を加えると被害者は93万人に上り、当時のバスクの人口の半数近くになる。スペイン戦争の被害者としてほかの地域と比べものにならない大きな数である。 これはフランコ政権に対するバスク人の怨みになって消えることなく、内戦終結後も抵抗運動を続けたので、36年間に及んだフランコ独裁政権の下でバスク人の運命は過酷なものになった。バスク語の使用が禁止され、差別と抑圧が続けられた。こうした長年に亘る怨念から1959年にバスクに独立を標榜する「バスク祖国と自由」(ETA)が結成されて政治的テロが繰り返された。ドイツ、イタリアのファシスト国家が滅んでから20年余り経っていたが、フランコに義勇軍を送った隣国ポルトガルのサラザール政権とともに独裁政権は延命を続け、1975年フランコの死亡によって漸く終わりを告げたのである。スペイン戦争が原因で多くのバスク人が欧米諸国に亡命や移住し、フランコ政権下のスペインには戻ろうとしなかった。しかしバスクを愛する気持ちは非常に強く、物心両面でバスクを支えて再生を願ってきたのである。 |
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| 2.モンドラゴン協同組合の創設と理念 | |||||||||||||||||||||||
| バスクは大西洋に面して昔から貿易が盛んで、ビルバオはその中心であった。また優良な鉄鉱石の鉱脈に恵まれ、鉄鋼業と種々の製造業が地域を潤していた。1930年代においてバスクはスペイン随一の経済力を誇っていた。しかしスペイン戦争による町の破壊とその後フランコによる圧政で苦難んp時期が続いた。政治的、経済的圧力にどう耐えていくかはスペイン戦争後のバスクにとって大きな問題であった。1941年にカソリックのホセ・マリア・アリスメンディアリタ神父がモンドラゴンに赴任して、内戦で疲弊した町の立て直しを呼びかけた。
アリスメンディアリタ神父はスペイン戦争ではバスク軍の従軍記者として戦場に赴きフランコ反乱軍に捕らえられて投獄された。危うく死刑になるところを助かって、疲弊しきった町の状況をう憂いた
神父は仕事を起こして町を建て直すことを決意した。当時のモンドラゴン市は鋳造工場ウニオン・セラヘラの企業城下町だったので、工場付属の徒弟学校の教師の立場を活かして若者たちの啓蒙を始めた。そのために「カトリック活動団」の組織も活用した。モンドラゴンスポーツ青年団も組織した。神父が考えたのは協同組合を作って仕事興しをすることであった。手始めにファゴール工業協同組合を作って、石油コンロの製造を始めた。現在ファゴールグループに所属する家電メーカーはスペイン、フランスで第1位、EU管内で第5位の位置にある。同時に教育省認可の技術専門学校を設置して技術を磨き、アラサテ工業協同組合を作って旋盤機械の製造を始めた。またこれらの工業協同組合には社会保障制度が適用されていなかったので、ラグンアロ共済組合を組織して独自に社会保障を始めた。これによってモンドラゴン協同組合(Mondragon
Corporation Cooperativa以下略称MCCと呼ぶ)は発展のきっかけをつかむことになった。
当時のモンドラゴンと周囲の町は貧しいだけでなく、精神的なよりどころを失っていた。アリスメンディアリタ神父は住民を元気づけるためにサッカーを奨励し、教育を再生させ、文化活動を活発にした。それらの活動と合わせてMCCの事業が進められた。その方針は後に「モンドラゴン協同組合原則」として定式化された。
MCCは先に事業体があって後から運営手段として「経営参加」を入れたのではなく、設立の理念からこのことを運営の原則とし、“労働者組合員による経営参加を体質化して作られた組織”なのである。したがって労働者組合員が拠出する出資金も半端な額でなく、それぞれが年収に相応する額を目指して増資している。 |
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生産、金融、流通にわたる多面的な事業展開
(1)多岐にわたる生産部門 1959年に設立された労働人民金庫(CLP)はMCCの事業と雇用の拡大のための資金面を担ってきた。同時にMCCの発展のための経営指導、監査を始め、企画、調査といったグループ全体の本部機能を果たしてきた。しかし80年代後半からのEC統合という状況の変化に対応するグループの統括機能をMCCの連合体に移す必要が生じたため、CLPは本来の金融業務に特化させることになった。そして名称も「労働金庫」に改めて新しいスタートを切った。 フランコ独裁政権時代にバスク語の教育を禁止され、民族の誇りが奪われてきたのをアリスメンディアリエタ神父が教育を再生し、MCCにおいても教育を重視してきた。当初は多くの教育協同組合を設立して義務教育も実施していたが、後にこの部分が自治体に移管されたので、現在は職業訓練学校とモンドラゴン大学だけを運動している。モンドラゴン大学は工学部、経済学部、人文・教育学部の3学部からなる学生数4000人の総合大学である。学生はバスクだけでなく、スペイン全土とヨーロッパ諸国から集まっている。 MCCの成功の要因としては次のようなことが挙げられます。 |
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社会的企業(Social Enterprise)というのは社会的課題の解決を目指す企業体のことである。社会的課題は現代社会の矛盾として発生する諸々の問題で、「貧困」、「差別」、「失業」、「環境破壊」等々多くのものがある。これらに対して慈善事業でなく、収益を上げるビジネスとして進めるものである。どのように意義がある活動でも財源を寄付やチャリティに依存し、ボランティアの無償労働で進めるのは限界がある。従って収益を上げてゴーイングコンサーンの事業として進めるのが「社会的企業」である。 MCCは多くの面でこの基準に合致する社会的企業である。MCCは協同組合方式を採っていて社会的協同組合に分類される。社会的企業の形態には多様なものがある。中には株式会社形態で事業を行うものがあるが、通常の株式会社と社会的企業の株式会社の違いは、利潤追求を目的にするかどうかにある。社会的企業は収益は上げるがそれは社会的課題の解決というミッションのためであって、収益を上げることが目的ではない。グローバル化する資本主義企業に対してのオルターナティブとして、社会的協同組合や社会的企業の果たすべき役割はますます重要になっている。以下各国におけるにこれらの組織の活動の実態を紹介する。
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| 5.新しい可能性を開いたグラミン銀行
社会的協同組合や社会的企業がもっとも必要とされながら、これまで開発途上国にはその活動がそれほど根付かなかった。しかしムマハド・ユヌス博士によるグラミン銀行の成功で、今後に大きな展望が開けてきた。バンラデッシュは世界の最貧国である。多くの農民は土地を持たず、地主に高率の年貢を納めて小作に従事している。その上それほどが種子や肥料、内職の材料を手に入れるために高利貸しから借金をしている。こうした人々を救おうとチッタゴン大学経済学部長であったユヌス博士は1972年職を投げ打ってグラミン銀行を設立し、貧困者へ少額融資制度(マイクロクレジット)を開設し、農村で仕事を興して貧困から脱出することを奨めた。今日では78,000もの村で、700万人の貧しい人たちに融資している。グラミン銀行は当初から借り手の半数以上を女性にするという方針を定めて実行してきた。女性は多くの子供を育て、舅・姑に仕えながら貧しさの中で生活のやりくりをしている。ユヌス博士はこうした女性たちに正統な権利を与え、生活とコミュニティを変える力 グラミン銀行の会員は地域ごとに毎週1回集まりを持ち、返済があれば参加している職員に渡し、新たな借入があればその場で受け取る。新たな貸付は皆の了解のもとに行われる共同貸付のようなものである。しかし連帯保証ということではなく、返済が困難になった人は仲間の助言と励ましを受けて努力を続ける。会合は「16の決意」を全員で唱和することから始まる。 |
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| 6、「社会的企業」の将来と日本での展開
日本では生活クラブ生協のワーカーズコレクティブと労働者協同組合(ワーカーズコープ)が協力しあって活躍を進めてきた。前者は女性が中心になって地域での生活関連事業の仕事おこしと運営、後者は自治体の公園などの清掃や生協の物流センターでの商品のセットや品出し作業を受託したり、資格をとって介護サービスに従事したりということである。国際的にみれとこの活躍は社会的協同組合方の分野で、前述のイギリス、イタリア、韓国を始め、多くの国で「社会的協同組合方」「産業共同所有方」「生産労働者協同組合方」「産業経済協同組合方」といった独自の法律のもとに設立され、運営されている。日本でもこの活動は参加者3万人、事業高300億円を上げるまでになっていて、これをもとに「協同労働の協同組合法制化市民会議」を組織して法律の制定作業を進めている。これまで準備のために長い年月がかかったが、実現のために168人の国会議員による超党派の議員連盟が組織されて、遅くない時期に法律が制定される機運になっている。法律が制定されて「協同労働による協同組合」が発足すれば、ざっと考えただけでも次のような多くの分野で活動を始めることができる。 金融危機によって多くの職場でリストラが強行され、貧困化と差別化が進行している。こうした時にこそ、従来の雇用労働だけでなく、働く人々自身が出資して協同組合を組織したり、共同出資の企業体を作って自ら運営するということが重要になる。職を求める「求職」という働き方から、仕事を創り、職を担う「創職」「担職」といった考え方の導入である。それは68年前にバスクでアリスメンディアリエタ神父の呼びかけで創られたMCCの事業の原型であって、現在ヨーロッパを中心に社会的協同組合、社会的企業として広がっているものである。これまで立ち遅れていた日本でも、 くこれらの事業が展開できる時期に入ってきたと云える。 《参考文献》 『バスク民族の抵抗』大泉光一著 新潮新書 『スペイン戦争』齋藤孝著 中公新書 『南 へのみち』-バスクとそのひとびと 司馬遼太郎著『街道をゆく』文藝春秋 |
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