| T グラムシの生きた時代
(1).グラムシの生涯
アントニオ・グラムシは1891年にイタリアのサルデーニャ島に男4人女3人の7人兄弟の次男として生まれた。父親は登記所に務めていたが、村を2分する選挙で敗れたこともあって職務上不法行為の罪に問われ、禁固刑に処せられた。
グラムシは一歳半頃突然背中にこぶができて大きくなり、けいれんや大量の鼻血が出ることが続き、身障者となった。端麗な顔立ちに拘わらず大きなこぶを背負っているため身長は150a足らずしかなかったという。家が貧しい上に身体障害者で且つ身体が弱く、苦しい少年時代を過ごしたようである。それでも勉強好きのグラムシは家族みんなの援助で高校を卒業し、奨学金を受け1911年にトリーノ大学へ進んだ。当時トリーノは近代工業都市に転換する最中にあり、このことがグラムシに大きな影響を与えた。フィアットのトリーノ工場を中心に相次いで労働組合が組織され、グラムシは触発されて社会主義思想に傾斜していき、社会党に加盟、トリーノで工場評議会運動を指導しながら機関誌編集局に入ってジャーナリストとして活躍、文化的素質が注目されるようになった。
1917年のロシア革命の洗礼を受けたグラムシは1921年にイタリア共産党の創設に参加し、この後モスクワのコミンテルン執行委員に選ばれた。1922年滞在中のモスクワでヴァイオリニストのロシア人女性ジュリア・シュフトと恋仲になり、後に結婚した。1924年下院議員に選出され、イタリア共産党書記長となる。
この頃ソ連共産党の内部分裂を憂慮して書簡を送ったが、握りつぶされた。それがもとでグラムシとソ連及びコミンテルンの間に亀裂が生じた。あからさまではないが、グラムシはスターリン主義を批判するようになった。1926年ムッソリーニのファシスト政権によって逮捕され、以後10年に余る獄中生活を余儀なくされた。この間病気と闘いつつ『獄中ノート』を書き続け、多くの人々に『獄中からの手紙』を送り続けた。1937年に病状悪化のため出獄したが、4月27日に死去した。46歳という若さであった。
(2).獄中のグラムシを支えた人々
グラムシには纏まった著作があるわけではない。その思想は29冊の「獄中ノート」といろいろな人に送られた428通に及ぶ「獄中からの手紙」で伝えられている。獄中にいるグラムシを支え、死後困難ななかで「獄中ノート」を保管し、「獄中からの手紙」を集めて後世の人々に残す上で重要な役割を果たした2人の人物がいる。
1人は妻ジューリアの姉のタティアーナである。父はピョトール大帝時代にロシアに移住したドイツ系ユダヤ人の名門の家系で、反ツァー派として追われてボルガ河畔に移った。ここで同じ流刑者で後のレーニンと親しい関係になった。その後フランス、スイス、イタリアに移り住んだが、帝政崩壊直前の1913年に次女のタティアーナだけを残して家族はロシアに戻り、モスクワ近郊に住んだ。そして後に4女のジューリアがグラムシと結婚した。しかし結婚後はごく短期間を除いてジューリアはイタリアに来ることなく、生まれた2人の子供とともにモスクワで過ごした。そのためタティアーナが妹に代わってグラムシの世話をし、入獄して亡くなるまで献身的に尽くした。
タティアーナの協力がなければ病身のグラムシは獄中生活に耐えれなかったであろうし、「獄中ノート」の保管もできなかった筈である。獄中のグラムシは妻ジューリア以上にタティアーナに頼りきりで、かなりわがままを云っていたことが手紙に表れている。往復書簡の内グラムシからタティアーナに宛てたものが239通と全体の半数を超えている。しかしタティアーナからグラムシに出したものは617通と遙かに多い。タティアーナは文字通り自分の生活を投げ打ってグラムシに尽くしたのである。
もう1人は経済学者のピエーロ・スラッファである。スラッファはユダヤ系の裕福な家庭に生まれ、父は後にボッコーニ大学の学長になる名門であった。グラムシが社会党機関誌編集の傍ら『オルディネ・ヌオーヴォ(新しい秩序)』という週刊誌を出したのをトリーノ大学で6年後輩のスラッファが手伝ったのが交友のきっかけである。スラッファは経済学の分野で非凡な才能を発揮して国際的に認められ、後にケインズの知遇を得てロンドンに渡り、ケンブリッチ大学の講師に招かれることになる。
学問の領域はグラムシが哲学と政治学、スラッファは経済学と異なり、共産主義思想にも与しなかった。このように思想は違ってもスラッファはグラムシの人間性と才能を評価して、終始助言と経済的援助を惜しまなかった。特に入獄した後は本を送って欲しいという要望に対して、スラッファは父親名義でミラノの書店にグラムシのための無制限当座勘定口座を開設し、新聞、雑誌、書籍を自由に購入できるようにした。その他あらゆる援助を引き受けることを申し出た。グラムシは大変喜んでタティアーナにスラッファの申し出を伝え、「これで私は十分に落ち着いた気持ちで目を将来に向けることができます。ジューリアと子供たちが不自由に苦しむことがなければ安心しておられます」と書き送っている。しかしモスクワにいる妻のジューリアは経済的援助を頑なに拒んで、獄中のグラムシを悩ませることになる。
勿論タティアーナとスラッファだけでなく、グラムシの兄弟や友人も手紙を送ったり、面会に行ったりして慰めた。ジュリアと子供たちも手紙のやり取りをしている。また路線が対立していたイタリア共産党の幹部トリアッティも一時期同じ監獄で過ごすことがあり、この時は親身になって身体の弱いグラムシの世話をしている。
しかし入獄前から入獄中、そして死後「獄中ノート」の保管に努め、「獄中からの手紙」を集めて世に出るようにしたのはタティアーナとスラッファ2人である。グラムシの死後タティアーナはスラッファに「ノート」の保管をどうすべきか指示を仰いでいる。それに対してスラッファは「ジューリアのもとに送るのが最善だが、もつとも安全な輸送方法をとるために私が行くまで待ってください。」と指示した。遠く離れたロンドンからの手紙である。スラッファはパリにいるトリアッティにも連絡している。トリアッティはいずれ「獄中ノート」は刊行する積もりなので、それまで安全に保管できるようにして欲しいと頼んでいる。その後スラッファはローマでタティアーナに会って「獄中ノート」を安全な場所に移すことを助言した。その指示によって「獄中ノート」はイタリア商業銀行の金庫に預けられ、ローマのソヴィエト大使館を経てモスクワに送られた。連絡が悪く危うく破棄されようとしていたところをすでにモスクワに戻っていたタティアーナが立ち会って、コミンテルン執行委員会中央文書保管庫に保管された。
タティアーナは1943年ナチスの侵攻を逃れて疎開していたキルギス共和国で63才で亡くなった。獄中のグラムシを懸命に支え続けて一生を終わったのである。スラッファはロンドン滞在中にイギリス政府によってムッソリーニ統治下の敵性市民として逮捕、拘留されたが、ケインズの抗議でロンドンに戻って研究を再開することができた。後に「アダムスミスからリカードにいたる古典派経済学者」を復権させ、その学問的貢献は国際的に高く評価された。終生ロンドンで暮らしながらもイタリアの国籍を維持し、1983年に85才で亡くなった。1998年に「スラッファ生誕100年記念集会」が各地で行われたが、そこではグラムシとの関わりが中心テーマになったとのことである。
U.グラムシの思想と行動
(1)グラムシの時代を見通す目
グラムシの遺稿は1947年にイタリアで「獄中からの手紙」の一部が刊行され、48年には6巻からなる「獄中ノート」の刊行が始まった。50年にはグラムシ研究所(後の財団グラムシ研究所)が設立された。その後イタリアはもとより国際的にグラムシに関する研究が活発になり、相次いで協会と研究所が設立された。「ノート」と「手紙」の出版も相次ぎ、1998年にはイタリア政府が省令で『アントニオ・グラムシ全集』の国定版の発行を決め、作業が開始された。
現在アントニオ・グラムシは国際的にも最も引用されることが多い思想家の一人であり、日本でも毎年多数の研究書や論文が出されている。 もともと「獄中ノート」は自分自身のために書き留めたものである。そのため重複があったり、必要な説明がなかったりするところが目立っている。
またグラムシ独自の思考法のために全体に難解である。「獄中からの手紙」は私信であるためその感が一層強い。しかしそうした面を越えて、後の人々に訴えるところは大きく、没後70年が経ち21世紀に入った今でも輝きが弱まることはない。「獄中ノート」全体を通じて読み取れるのは、「グラムシの時代を見通す目」の確かさである。その主要な考えと主張を箇条書きで示してみる。
| @ |
理念はそれが実現可能であり、情勢に内在する現実の関係を
明らかにするから偉大なのである。 |
| A |
ロシア革命はマルクスの『資本論』に反する革命だが、「民衆の集団意思」である。 |
| B |
ファッシズムとスターリニズムは共に「国家万能主義」に根ざすものである。 |
| C |
生まれ出ようとする新世界の基準点は新しい土台に基づく経済力の発展に 置かれなければならない。 |
| D |
「国家=政治社会+市民社会、すなわち強制の鎧をつけたヘゲモニー」である。 |
| E |
われわれはいつでも国家と政府を同一視する基盤に立っている。これを同一視す ることは同業組合的−経済的形態すなわち市民社会と政治社会の混同の再現に繋がる。 |
| F |
規正された社会(倫理的または市民社会)の諸要素がますます強まるにつれて、 国家=強制の要素は衰退していく。 |
| G |
労働の場、生産者が共に生活する場こそ、明日は社会の中心になり、現代社会の 中核の役割を引き受けなければならない。 |
H |
労働者の自治による「工場評議会運動」こそ「労働者の自治」である。 |
I |
対立する用語を相互補完的に関連させて思考を発展させた。
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−精神と物質、理論と実践、知識人と民衆、必然と自由、知識人と「サバルタン」 (従属集団)知的・道徳的改革と経済改革、上部構造と構造(下部構造)、国家と 市民社会、自立と共生、力と合意、常識と良識、階級的と国民・民衆的
このなかにも再三出てくるが、グラムシが特に重要視したのは「市民社会」であった。ヨーロッパの場合に市民社会は古代ローマ時代から存在していたが、マルクス主義の理解では「階級対立のなかで有産階級が支配する社会」ということになる。日本でも市民社会というと今でも取り澄まして日常性に欠けた別の社会のように理解されてしまう。
日本には戦前から「市民」という概念がなく、これに代わって支配者の側からは「臣民」、左翼陣営からは「人民」と呼称されてきたことによるもので、その後「国民」という言葉に代わったが、「日本国民」という意味での集団的呼称であって「市民」がもっている自由で自立する人間とはほど遠いものであった。70年前にグラムシが強調した「市民」と「市民社会」は、これからの社会の重要なコンセプトであり、今後ますます重要になっていく。
(2)グラムシ思想のキーワード
トリーノ大学でグラムシが専攻したのは近代言語学である。そういうこともあってグラムシは言葉の問題を重視した。「獄中ノート」にはグラムシ独特の用語が使われており、それによってより深い意味を伝えている。逆に云えばこれらの用語が判らないとグラムシがよく理解できないということになる。そのため主要な用語の意味と使い方を紹介しておきたい。
・受動的革命:簡単に云えば「民衆による下からの運動を伴わずに起こる革命」ということである。上からの指導と宣伝を通じて行われる変革で、受動的に浸透する革命を意味する。「革命なき革命」とも云われるが、「反革命」とは異なる概念である。グラムシはムッソリーニの「私はファッシズムを創造したのではなく、イタリア人の奥底から引き出しただけである」と云ったことに衝撃を受けたと伝えられているが、これこそファッシズムがイタリアを席巻する力になった「受動的革命」の典型である。このためグラムシはこれがもたらす重大な結果に注意を喚起したのである。時代が代わってレーガン、中曽根、サッチャーと広がった主要資本主義国における「小さな政府と徹底した民営化」への政策転換で、それぞれの国民は政府の指導と啓蒙運動、マスコミによるキャンペーンによって、経済のあり方から社会のあり方まで一変させられた。一時「マスこまれる」という言葉が流行ったことがあるが、これも「受動的革命」である。
・ヘゲモニー:元来は「政治的支配」の意味で使われてきた。レーニンもプロレタリアの指揮権をヘゲモニーと表現していたが、十月革命以後は「プロレタリアートの独裁」という表現を用いるようになった。グラムシは支配に対する指導、強制に対する同意、政治社会に対する市民社会との関わりでヘゲモニーを捉えた。即ち市民社会での同意に基づく知的・道徳的指導を意味する用語である。
・機動戦と陣地戦:「政治の分野での機動戦(正面攻撃)から陣地戦への移行」は革命と革命後の戦略、戦術の違いを示したものである。即ち機動戦は権力奪取のための正面突破作戦であり、陣地戦は広範な大衆の支持を得て広げていく浸透作戦である。
「東方は機動戦で勝利した。…東方では国家がすべてあり、市民社会は原初的でゼ ラチン状であった。西方では国家と市民社会の間に適正な関係があり、国家が揺ら ぐと直ちに市民社会の堅固な構造が姿を現した。…機動戦はますます陣地戦となり、 平時から細心且つ技術的に陣地戦を準備するならば勝利できよう。」
(1930年−「陣地戦と機動戦若しくは正面戦争」「ノート」7、§16)
(1932年−「“集団的人間”または“社会的順応主義”の諸問題」13,§7)
ここでは陣地戦の重要な要件として「ヘゲモニー」問題が浮かび上がっている。このようにグラムシの理論は絶えず相互に関連しているのである。
・「サバルタン」(従属集団):長年本土から差別されてきたサルデーニャで育ち、身体障害者で貧困に苦しんできたグラムシは「サバルタン」(従属集団)の悲哀を身を以て体験した。グラムシはサバルタンが指導者になり、大衆の経済活動に責任をもつようになると社会的存在様式に変化が生じると考え、サバルタンの知識人をどのようにして形成するかということをヘゲモニーと関連させて示した。
・「ホモ・ファーベル」(工作人):人間は自己の利益を最大限に追求して行動する「ホモ・エコノミクス」(経済人)が類型とされてきたが、グラムシはマルクスの「労働は人間にとって最も尊厳かつ高貴なものである」との考えをもとに、工作人=ものを作る人に重きを置おいた。これはベルグソンの考えが元になって生まれたものだと云われている。ベルグソンは『創造的進化』のなかで「知性は何よりも先ず製作を目指すものであり、人間は社会的存在であるから、真の製作のためには他人の知性と連携することが重要である」と云っているが、その考えに沿った新しい労働観、労働者観である。「ホモ・サピエンス」(人間)を理性をもった人、或いは正しい意味での(知識人)と捉え、「ホモ・ファーベル」と統合させた。即ち労働の主体である人間が他からの強制に依らず、自律性を重んじ労働を通して自己実現する姿を描き出したのである。
・実践の哲学:グラムシは「マルクス主義」「史的唯物論」を「実践の哲学」という用語に置き換えている。
哲学の「歴史性」とは、その「実践性」以外のなにものをも意味しないと結論づ けるべきでないか…実践の哲学の性格は、とりわけ大衆の考え方、統一的に行動す る大衆の文化、すなわち、観念において普遍的であるばかりでなく、社会的現実に おいても「一般化」される大衆の文化ということも引き出される。
(1932年−「クローチェ論文についての問題点」「ノート」10、11、§31)
・知のペシミスト、意思のオプティミスト:グラムシは強い意思で身体障害と病弱な身体にむち打って逆境を乗り越えた。それを表現したのがこの言葉である。これは弟カルロへ当てた手紙に書かれており、弟を励ます言葉が添えられている。
人間は自分自身を認識し、その個人的意思がいかなる価値をもち、それがいかに 強力なものになりうるかを知っている。それは必然に従い、その規律に服し自己の 目的に合致させることによって、ついには必然そのものをも支配することになる。
(1918年1月5日−「われわれのマルクス」『イル・グリード・ポーポロ』)
・アメリカニズムとフォーディズム:これは「獄中ノート」のなかでも多くのページを使って書かれている。世界の経済と文化がヨーロッパからアメリカに移っていくことを見通し、それを「アメリカニズムとフォーディズム」という言葉で表現した。そこから経済、政治、文化の領域で浸透してくるものを新しい文明と捉え、大きな社会変化を予測した。労働者と労働組織の変化にも注目し、フォーディズムのもとでの新しい労働形態と生活様式を結びつけて一つの文化と位置づけた。その立場からヨーロッパの知識人の単純な「反アメリカニズム」の風潮を批判した。
今日「アメリカニズム」と呼んで(反対して)いるものの大部分は、興りつつあ る新しい秩序によってまさに粉砕されてしまう旧い諸階層、そして既に社会的パニ ック・解体・絶望の荒波の餌食となっている旧い諸階層の予防的批判であり、再建 の能力もないまま変革の否定的側面にしがみついている者たちの無意識な反動の試 みである。
(1934年−「アメリカの文明とヨーロッパの文明」「ノート」22.§15)
フオードの方法は<合理的>である。すなわち一般化されねばならないと答える ことができるように思われる。
(1934年−「アメリカニズムとフォーディズム」「ノート」22.§13)
グラムシは当時左翼陣営に支配的であった「資本主義の全面的危機と衰退論」を批判し、資本主義は自己革新を繰り返して発展するとした。皮肉にもグラムシの生誕100年に当たる1991年は、ソ連の社会主義体制が崩壊した年であった。
V.グラムシ思想の現代的適用
(1)グラムシによって現代を読み解く
グラムシの思想は現在政治面で中心的に検討されているわけではない。この分野で問題にされることはあまり多くない。主に検討されているのは学術面以外では諸々の社会的分野である。市民社会の在り方を始め、教育、文化、メディアの分野でグラムシの検討が行われている。事業分野では<非営利・協同の市民セクター>として、協同組合、NGO、NPOをもとにした検討が行われている。<グラムシ思想のキーワード>によって「現代を読み解く」ことにしてみたい。
(A)韓国の社会・政治分析事例
−聖公会大学チョ ヒョン教授の報告から
○ 市民社会の分化とヘゲモニーの変化
今回のシンポジウムで韓国のグラムシ研究の第一人者であるチョ ヒョン教授は、「現代韓国政治変動と社会運動の変化:ヘゲモニーと“ヘゲモニー亀裂”の観点から」という特別報告をされた。長い報告の一部分のレジュメを要約すると以下のようである。
“新自由主義的グローバル化と結合されて進化される民主化“
過程におけるヘゲモニーの変化
・98年:第1期反独裁野党‘民主政府’としての金大中政府
・03年:第2期反独裁野党‘民主政府’としての盧武鉉政権
・新自由主義的グローバル化と民主化の結合的進行。反独裁民
主政府がいわゆる新自由主義的政策の担い手に
・新自由主義的グローバル化は97年以後の経済危機の克服とし
て断行された開放化措置と民営化・脱規制化など新市場型構造
改革によって、外在的力ではなく内在的傾向として定着。反独
裁民主政府がそれを推進する側になる逆説的な状況の出現。
市民社会の葛藤的な分化
・市民社会内部で進歩的市民社会組織の主導権の弱化
・市民社会の抵抗的・主体的活性化が支配的だったとすれば、こ
れの停滞あるいは逆転=‘保守の能動化’
・‘国家対市民社会’の対立の構図を取り替える‘市民社会対市民
社会’の出現
・ある意味では、市民社会をヘゲモニーと対抗ヘゲモニーへの鬩ぎ
合いの場として把握したグラムシの理論が逆説的に民主化が進行
されながら出現している
韓国経済の破綻の中で政権を担った金大中大統領はIMFの援助と引き替えにその政策を受け入れざるを得なかった。軍事政権と命を賭して闘った金大中大統領のもとで韓国国民は苦難を耐え忍んだ。政府の呼びかけのもとに生活を切り詰め、外貨不足に苦しむ政府のために指輪などの金製品を供出したという。国がどうなるかという危機の中では、民主政府が新自由主義的グローバルの政策をとっても甘んじて受けたのである。しかし盧武鉉政権ではこの政策は受け入れられなかった。
新自由主義的経済運営の中で中間層が二極分化して一部の上昇する階層と多くの貧困層に分化した。国民の目には北に対する宥和政策も実効性がなく、金大中と異なり盧武鉉は金正日にいいようにあしらわれているに過ぎないと写ったのである。こうした背景のもとで盧武鉉を誕生させた民主陣営の中に亀裂が生じ、‘市民社会対市民社会’の対立が出てきたのである。従って年末の大統領選挙で「空論」でなく「現実」、「政治」より「経済」そして「民生第一」を掲げ、経営者としての実績を誇示した野党の李明博候補の勝利は当然であった。チョ
ヒョン教授は苦渋に満ちた分析でこの間の状況を説明したのである。
(B)日本で90年代末に経験した事例
○ 保革連合政権の末路
1994年に日本社会党の村山富市委員長を首班とする社会党、自民党、さきがけ3党による保革連合政権が誕生した。結果としては自民党と官僚にいいようにあしらわれて何ら社会党らしい革新色を出すことなく、改造を含めて1年半でこの内閣は崩壊した。「何もしない社会党」、「何もできない社会党」が世論となったが、それを喧伝したのはマスコミであった。
この後首班の座に着いたのは自民党総裁として副総理になっていた河野洋平氏ではなく、橋本龍太郎氏であった。開明派の河野氏は村山首相も信頼していた人物であったが、自民党は後任の首相に敢えて守旧派の橋本氏を推した。そうすることで保革連合政権の痕跡を完全に消し去ったのである。ヘゲモニーの移転でなく、社会党は最初からヘゲモニーを握ることなく終わった。この後の社会党の結末は悲惨なものであった。
新しく誕生した民主党に国会議員の大半を吸収され、党員の一部は新社会党を組織して分裂するなど、社会党を引き継いだ社民党は議員数で共産党にも及ばない少数政党に転落してしまった。この事態をグラムシ思想のキーワードで分析するとどのようなことになるのであろうか?
(2)グラムシが息づく「市民セクター」の事業
今日多くの国で「非営利・協同の市民セクター」が活発に活動している。そこには直接、間接にグラムシの思想が息づいている。
A)イタリアの社会的協同組合
イタリアは生協を始め協同組合運動の盛んな国である。このなかで社会的協同組合は独自の法律(法律381)をもって活発に活動している。「通常の人の組織」と「ハンディーキャップをもった人の組織」の2タイプがある。前者は主に社会的支援(ホームヘルプ、介護サービスなど)と教育サービス、後者は農業、工業、商業、サービスと多様な活動をしている。両者とも雇用創出の役割を担っており、国は税制面での優遇措置などの支援を行っている。全国で7,000もの組織があると云われ、益々発展している。
B)イギリスの社会的企業
協同組合、事業型のNPO、コミュニティービジネスなど形態はいろいろだが、「人と人の関係で組織される事業体」を共通のコンセプトにして活動している。イギリスでは1970年代に「産業共同保有運動」ということが活発になり、高齢者や障害者のケア、レジャー、コミュニティー輸送(コミュニティーでのバスやタクシー)幼児や成年者の教育や就労を求める人たちへの職業訓練などコミュニティーのニーズに根ざした事業を展開している。これはブレア政権の「福祉から仕事へ」という社会福祉政策の転換によって弾みがついている。
ここでも「雇用の創出」が重要な要素であり、若者が「企業に雇われる」だけでなく、社会的企業を通じて「自己雇用」することがキーポイントになっている。組織としては労働者協同組合(ワーカーズ・コープ)といわれるものを始め、多様なものがある。現在55,000人が社会的企業で働いており、ここで上げる利益は年間620億円を越えると云われている。
C)スペインのモンドラゴン協同組合
バスク地方はスペイン内戦の時にフランコ反乱軍を迎え撃って激しく戦った。そのためフランコ独裁政権はその後長期に渡ってバスク地方の人々を弾圧し、差別し続けた。このためバスク地方は失業者が多く、貧困に苦しめれてきた。1941年にこの地に赴任してきたカトリックの神父アリスメンディアリェタは、この状況を改善するために住民に教育の場を与え、産業を興して貧しさから開放するための事業を起こすことを勧めた。これがモンドラゴン協同組合の始まりである。
現在この組織は生産、流通、金融、共済、教育、社会貢献事業など多岐に渡る事業を転嫁しており、事業高は生産・流通部門だけで2兆2千億円近くに上っている。協同組合による自己雇用が大きな柱で、「労働者は所有者であり、主人公、自主管理による積極的参加」を原則にした運営が行われている。この協同組合はここで働く労働者が組合員で、総会の下に基本政策を決める統治理事会と、経営を行う事業理事会を置いて事業の運営に当たっている。
経営はもとより経営陣の報酬と労働者の給与もガラス張りである。給与は通常の賃金と組合員としての利益配分からなり、毎月支給されるのは仮払いで、決算が出て業績が確定してからプラスマイナスされて給与が確定するといった独特の方法をとっている。
ヨーロッパには33の国と地域の社会的企業と労働者協同組合を結ぶ「ヨーロッパ労働者協同組合連合会」(CECOP:本部=ブリュッセル)がある。
D)韓国の社会的企業
90年代以降活発になった生産、消費、信用分野の協同組合づくりと一帯になって、雇用創出の一環として「仕事おこしと自律運営」を目指す社会的企業の活動が盛んになった。そして2007年7月に日本に先駆けて「社会的企業育成法」が施行された。
この法律は第1条で「社会サービスを拡充し、新しい就労を創出して社会統合と国民生活の質の向上に寄与することを目的とする」と規定している。指定される社会サービスの分野は教育、保健、社会福祉から環境及び文化面に及んでおり、国と地方自治体は社会的企業の設立、運営に必要な敷地購入費、施設費などを支援するために融資し、国・公有地を賃貸するとしている。
国と地方自治体が社会的企業の果たす役割を認め政策に取り入れたことで、今後の活動に弾みがつくものと期待されている。
(3)日本の現状と今後の方向
(A)生活クラブの活動
日本における「市民セクター」の運動は理念と実践の両面で「生活クラブ運動」が先鞭をつけ、発展させてきた。生活クラブは生協を組織して共同購入による事業展開を行うとともに、市民自治と社会的経済に関わる理論活動や「ワーカーズ・コレクティブ」という女性による地域での生活関連事業の仕事おこしを行っている。
さらには「生活者ネットワーク」を母体にして、代理人にと呼ばれる議員を送って地方政治へ参加するなどの活動を行ってきた。設立に当たった指導者の人たちがグラムシを熱心に学んだことから、活動のなかにグラムシ思想の影響とその発展的適用の姿をみることができる。
(B)労働者協同組合の活動
全日自労の運動が源流になって生まれた組織で、「雇われ者根性を排して自らが主人公になる仕事つくり」を標榜して、自治体の公園などの清掃や生協の商品セットセンターの品出し作業を受託したり、介護サービス事業を開拓したりしてきた。
組織の性格は「労働者協同組合(ワーカーズ・コープ)」であり、現在独自の法律を制定するために「協同労働の協同組合法法制化市民会議」という組織を作って活発な運動を展開している。この運動には生活クラブ生協が母体になって生まれた「ワーカーズ・コレクティブ」も加わっている。
日本では未だ「社会的協同組合」や「社会的企業」の活動が遅れているが、これを契機に大きく発展
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