第10回「7,000名のハルピン脱出」
                  “私家本の紹介 ”
        昭和46年(1971年)8月初版、平成2年(1990年)7月追加版

                                   2007年11月例会 幹事:村澤泉

                 木村 勉 

 
きむら つとむ  
1930年東京都生まれ。
1995年 日新火災海上保険(株)関連会社退任後、
よつ葉牛乳の共同購入団体の業務にボランティアで従事、以後、NPO法人「子どものいのちを守る会」理事事務局長、
(有)ブックス・エフエフ代表取締役等に就任、現在に至る。
 木村さんの「ハルピン7,000名の大脱出」のお話の前に戦後に生まれた方々に満州に付いて簡単に説明して前文とさせて頂きます。

 話は明治時代にさかのぼりますが、満州(中国東北部)は中国の領土でしたが、当時の中国は清朝末期で国力がおとろえ極東進出を狙っていたロシアは思うがままに満州を北から南に縦断する鉄道をひき、南端の黄海に面する旅順には軍港を作り極東艦隊を置き黄海の制海校を持つようになったのです。

 日露戦争による戦場は旅順に始り奉天の戦いで日本の勝利で終わったのですが、それに依り南満州鉄道は日本の支配下に入りました。中国は其後將介石により清朝が亡ぼされ、日本は清朝の未裔である傅儀を立てて満州国を作ったのです。將介石の国民党支配下の中国でも北には毛沢東の共産軍、各地方にそれぞれ軍閥の支配地域があったのです。それらが日本との戦争では一致団結しました。日本が負けた時には、それぞれの間で戦いが始まり、毛沢東の共産軍に破れた將介石は部下30万人と共に台湾に逃げ、そこを支配したのです。

 当時 、日本の産業は安い労働力に頼っていました。繊維産業が輸出産業の最大でカネボーと云う繊維会社がNO.1の時代が長く続いていたのです。人口の70%が農民でありました。農家の二男三男を受け入れる場所はなく、満州開拓団が結成され多くの人々が移住しました。日本陸軍は関東軍と云う組織を作り、ロシアにそなえたのですが中央の指令を無視して中国に向かって戦いを始めてしまいました。その暴走が日本全体の暴走のはじまりになったのです。

幹事:村澤泉

                          【はじめに】

 昭和20年(1945年)10月11日 軍医、看護兵、看護婦、傷病兵士など7,000名は、2ヶ月有余の苦闘をくぐり抜け博多港に上陸、復員した。
以下の物語は、ハルピン陸軍病院長 陸軍軍医中将嘉悦三毅夫の指揮の下、終戦前後の満州、朝鮮を舞台に繰り広げられた、嘉悦中将の回顧談によるドラマの記録である。

 嘉悦三毅夫は、明治25年(1892年)8月14日、父博矩の三男として熊本に生まれたが、細川・熊本藩の家老であった祖父 嘉悦氏房が維新後政界に進出し、県議会から代議士となるに及んで上京し、大正3年(1914年)東京慈恵会医学専門学校を卒業、翌年、三等軍医として陸軍に奉職した。昭和9年(1934年)満州国軍事顧問、15年(1940年)北京陸軍病院長、19年(1944年)ハルピン陸軍病院長となり、終戦後は、世田谷医師会副会長などを歴任した。(平成2年頃死去された、98才?)

 祖父 嘉悦氏房は、横井小楠を師とし、幕末の勤王佐幕、攘夷開国に揺れる熊本藩にあって藩論の統一と薩摩藩への国是統一の説得など東奔西走、京都留守居役として柳川星巌、橋本左内、光岡八郎、勝安房、坂本龍馬など各藩の志士と交流した。

熊本藩は、徳川家と細川家が姻戚関係にあったが故に主論は佐幕開国であった。しかし、大勢の方向は勤王倒幕・天皇ご親政にあり、肥後を討つべしとの議が起こり、奥羽・東北諸藩の二の舞になりかねなかつた。藩命による氏房の努力で、ようやく肥後討伐を免れたと伝えられる。
明治2年(1869年)、朝廷の命により上京し民部省に出仕し、陸中の胆沢県大参事(知事)に任ぜられ、その後も各県の知事、副知事を歴任したが、上司に施政改善を迫って受け入れられず、野に下った。この氏房の娘 孝子が現在の嘉悦学園の創始者である。
 
 昭和16年8月、 嘉悦三毅夫は軍医少将に昇進し、12月には、東部軍軍医部長に任ぜられている。東部軍というのは、東京と周辺地区を防衛する任務を持って編成されたもので、昭和20年には東部軍管区に編入された。(西部軍管区 中部軍管区 北部軍管区東海軍管区 四国軍管区 台湾軍管区 朝鮮軍管区)その後、昭和19年3月哈爾浜(ハルピン)陸軍第一病院長に任ぜられている。翌20年4月には軍医中将に昇進した。


T 終戦前後 

1.満州国とハルピン市
 『満州国は当時建国10年を経ていて、人口4,000万、ハルピン市は、その北辺に位するこの国最大の都市で人口80万、そのうち日本人7万、ソ連人7万、満人50余万という構成になっており、陸軍としては北満における唯一の後方兵站都市だった。』

2.ハルピン陸軍第一病院について
 『満州における陸軍病院の数は、本院、分院合わせて数十あったが、ハルピン陸軍病院は満州における陸軍病院として最大のもので収容定員6,000名、これに伴う職員の数は病院長以下医員約60名、看護婦約300名(看護婦生徒も含む)、衛生兵約300名、職員約300名、計1,000名、その他病院の付属として農地約50町歩、乗馬および耕作用として馬約25頭、乳牛10頭、豚約600頭、農地耕作農夫約300名等を有し日本陸軍最大の病院であったが、大佐以上の参謀だとか、副院長もいなかった。従って、病院長兼会社社長のようなものでした。』

『終戦直後、ハルピン陸軍病院には入院患者5,500名、職員1,000名、計6,500名がいた。当時満州には3百数十の部隊がいたが、部隊をまとめて帰国できたのは、この病院だけであった』

3.終戦前の一般情勢
 『ドイツの敗戦が濃厚になるにつれ、在欧の大公使がシベリヤ経由で帰国する途次、ハルピンで骨休みし、ハルピンの宮川総領事が一席を設ける例があり、嘉悦病院長も列席、その場で「ソ連は世界大戦に参加せず、ソ連立たず」と皆が言われていた。嘉悦は、「私がソ連ならば立つが・・・」と意見を述べたが、否定的な空気であった。大公使が満州に入るに際して、ソ連は特別列車を仕立てて当時のソ連首相、外務、軍部の各大臣、その他の高官が駅に見送りきたほか、列車内のサービスも至れり尽せりで、ボーイから女給仕までつき、風呂まであったとのこと。これが判断を誤らせた一因で、中央が満州より部隊を南方に移す決断をさせた一因ではなかったかと私は考えている。』


4.ソ連と一戦を覚悟す
 『終戦約1ヶ月前よりソ連は毎日、日本語で「近く日本は重大危機に直面す」ということを放送しておった。内地からの新聞その他によると「陸海軍共非常な勢いで南方に進出している」という情報がくるけれども、いろいろな状況から判断すると、やはり私(嘉悦)は、ソ連のラジオ放送通り日本は重大危機に直面しておると感じたので、必ずソ連と一戦する必要があるという覚悟の下に、病院としていろいろの準備を進めた。

 このためには衛生兵並びに傷病兵ではとても一戦が出来ない。又一戦ばかりでなく病院の行動も不可能と感じ、当時軍司令官から「病気は癒らんでもよいから、小銃が打てるようになったらば原隊に成るべく多く返せ」という命令が再三病院に来たが、敢えて軍規違反をし、引き揚げ数ヶ月前から治癒した者を原隊に復帰せしめずそのままにしておいたので、この健康な傷病兵が1,000名以上いたのである。担送患者が500名もあったので、これら健康傷病者が食糧、衛生材料などの荷物運びをやってくれたので、私の部隊は内地に無事帰還が出来たといっても過言ではない。その健康兵に対して、私は「皆は当然原隊に帰さなければならないのだが、自分としては、病院も場合によっては一戦を交える覚悟であるから、皆はそのつもりで病院のために一生懸命やってくれ」と話して働いてもらった。内地引き揚げに当たって、この健康兵たちは全く献身的に死に物狂いで病院のために働いてくれた。

 又、武器が全然ないので、鉄製寝台の裏にある鉄棒を利用して、病院の磨工約40名に昼夜兼行で槍を製作せしめ、当時「銃はやれないが木銃ならば幾らでもやる」という軍の通知を受けたので、木銃を四、五千本貰い、その先端に槍を取り付け、職員、衛生兵、看護婦、病人等全部に1銃づつ持たせ、槍を以てソ連軍と一戦をやる覚悟であった。ソ連がハルピンに入ってきたのは、8月16日だった。最終列車が出た1日前です。』

《従軍看護婦の証言―8月9日、ソ連軍が北満北鮮に一斉になだれこんだという報せ。日頃から積極果断を信条としていた嘉悦部隊長は、関東軍司令官からの命令もなく、援護部隊もないので、独断で移動中の6千余名の重症患者傷病兵を乗せた数列車を祖国へ向かわせることにしました。それから日々、日本の敗戦を知った満人から包囲される。停車は命ぜられる。患者を抱えた私達の心労は大変なものでした。なにしろ普通なら一昼夜で着く筈の平壌までなんと1週間もかかったのです。》

5.何故ハルピン引揚を決心したか
 『昭和20年8月7日ソ連蹶起の報に接したのですが、関東軍からは何等の指示もない。それで8月9日に連絡将校を新京に送った。ところが軍司令官以下が通化に引揚げており、何等得ることなく帰ってきた。参謀の草地大佐から「軍も大本営から命令が無いため去就に迷っている。嘉悦閣下には最善最良の道をとられるように」と言われたとのこと。軍司令官が隷下部隊に行動に関して何等指示することなく、後方に引下がるような状況下においては、私の部隊としてもそのままおれぬ。これは独断で行動するより道なしという決心をし、部内将校を集め、情況説明の後「諸官の腹蔵無き意見を求める」と告げた。将校たちの意見は「軍律に反することは自己及び軍の破滅を意味する」「軍病院の使命といえども人命救助にある。軍医もまた医道に従い、人命を救助すべき任務がある」と、いろいろな意見が出たが、教育隊長の少佐が「遠望深慮のある部隊長の決意と裁断にお任せし、一致協力してこれに従おうではないか」と結論した。戦時は「部隊は上官の指示なく駐屯地並びに陣地を離れた場合は、陸軍刑法により部隊長は銃殺に処す」となっているが、この際独断で行動すべきが至当と思った。』

6.諸官に告ぐ―撤退告知
 8月11日、全将校を集めて訓示し、命令した。
『諸官、諸官がすでに承知の通り、関東軍は敗れ去らんとし、皇国日本の弔鐘は鳴り響いている。ここ満州も外敵ソ連の先制侵襲により、一夜にして変貌した。事態は極めて重大である。この中にあって部隊の取りうる処置は、次の三つしかない。
すなわち生きて虜囚の恥辱に耐えるか、死して護国の鬼となるか、あるいは、戦場離脱の汚名を着るか、三者択一しかない。
自分は、自己の見解と諸官の意見を考究し、ここに敢えて第三の道を選ぶこととした。自分は今、諸官に対し報いる何物も持たない。飢えと強行軍と戦闘と、死を与えることができるだけである。志を異にする者には、自由を与える。思想を異にする者には、脱走、逃亡を認める。決して、後ろから撃つようなことはしない。また、在満の家族のもとに赴きたい者には、自分の責任で招集を解除する。
 しかし、爾後自分と行を共にする者は、いかなる難渋をも突破しなければならない。部隊の全知全能を傾けて、人間生命の尊さ、人命救護の偉大さを示さねばならない。
かって国家は、軍は、血潮の一滴までも、国に捧げることを至上の命令とした。いま自分は、諸官に、諸官の血の一滴をも、無駄にしてはならぬと命ずる』


『一瞬ながい沈黙がおとずれ、やがて目に涙を溢れさせるもの、すすり泣くものもいました。皇居遙拝黙祷のあと、どこからともなく自然に「君が代」の大合唱がまきおこり、合唱が終わったときには、何か新しいエネルギーが湧き上がってきたようでした。』

7.撤退列車の調達と自動車の新品への交換
 『8月12日、まず、主として重症患者を内地後送のため、正規の列車を仕立ててもらい、軍医以下1,300名を送り出した。ところが、この先発隊は鞍山郊外の湯崗子温泉の病院に収容されたのですが、帰還しえたものはごく僅かしかなかった。一方前線からは、まだ傷病兵が後送されてきたので、引き上げの最終時点では、やはり7,000名近くなっていた。この撤退には、合計70〜80輛が必要でしたが、これには鉄道司令部のハルピン支所長がウンと言いません。それを見越して、やむなく最後の賭に出たのです。「よし、あい分かった。君国のために闘い戦傷した将兵たちを、このまま見捨てるのであれば、部隊長として誠に相済まぬことである。彼等に先んじてここで切腹したい。済まぬが貴官に介錯を頼もう」と、さっさと軍刀をはずし軍服を脱ぎはじめました。不意をつかれて、あわてた支所長は咄嗟に答えました「分かりました。ご心情お察しします。自分の知らぬまの列車運行ということで、目をつぶります。」こういういわば「開き直り」に次いで、駐屯自動車廠に交渉し「いずれソ連に没収されるだろうから、病院所有の乗用車・トラック等36台を全部新品と交換してくれ」と要求しそれをかなえさせた。しかし、自動車は列車には積み込めないので、撤退列車とずっと平行している道、釜山まで600里(2、400キロ)の道を苦心惨憺して持ってきた。欲の深い話だが釜山に置いてきてしまった。売り飛ばせばよかった。ちょっと残念だった。』

8.第一線某司令官の醜態
 『ハルピン陸軍病院は郊外にあったのだが、某司令官から、「ハルピン中央部に転営すべし」という命令を受けた。私は「病院が転営することは絶対に不可能です」と意見を述べたが、軍司令官は「自分の手許には歩兵二個大隊、野砲一個中隊しかない。この部隊で大ハルピン市の防衛は到底出来ない。だからこそ中央部に集結してほしい」と言われたが、その命令には従わなかった。その後数日にして、私達には何等指示することなく、部隊をひきつれて通化に引き下がり、又数日後、部隊を連れてハルピンに来られた。話によると、山田関東軍司令官から「兵站部隊をハルピンに残して引下がるとは何事だ」との一喝によって舞い戻ったとのこと。この軍司令官は後日、ソ連軍の捕虜となり収容所で首を吊られ死なれたとのことである。』


U ハルピンから京城(ソウル)まで

1.引き揚げ列車での苦労
@転進(撤退)部隊の構成
 第一梯団は8月14日発、通化から輯安に着いたが、ここの病院は使用不能、平壌経由で8月21日京城に着いて病院開設を準備。第二梯団は第一梯団の補助、8月23日京城到着。第三梯団は1,200名の患者の搬送を主とし8月15日出発、8月23日京城着。第四梯団は、病院長が指揮し、残り全員で8月17日出発、8月25日竜山到着、全部隊が集合した。

A満鉄機関士確保
 『満鉄の機関士は、殆ど全部満人を使用していたので、この機関士の逃亡ということを非常に心配した。この引止め策として、第一に給料は3倍にし、第二に出来るだけの食事を与え、第三に就寝時は勿論、洗面、用便に際しても衛生兵2名の不寝番を各列車毎に立てて逃亡を防いだ。引揚列車は十数列車だったが、このうち第三梯団では逃亡されてしまつたが、傷病兵の中には砲兵、工兵もいて、何とか動かすことが出来た。』

Bソ軍の引揚阻止
 『部隊が十数列車で南方に下るので、ソ軍は飛行機で停車場に先着し、列車の運行を阻止せんとした。ソ軍は将校1名、下士官3〜4名であった。私は部下に「どういうことがあっても突破しろ。もしソ軍が頑強に阻止を言い張るならば突き殺せ。」と命じ、バリケードが築かれた時は、人海戦術、おとなしく従うと見せかけて、一挙に包囲し、木銃の槍を土手っ腹に突きつけた。タンクでもくればオシマイでしたが、この意気込みに恐れたのか、数十回の阻止に会ったが、無事入鮮することが出来た。』

C担送患者の輸送
 『病院には療工兵が100名ほどおり、彼等が板で工作し急場に2段ベッドを作った。車内治療は何も出来ず、多少の投薬、包帯交換だけだったけれども、化膿創が悪化することもなく、内地に着いたときは、松葉杖をつけずにスタスタ歩いて帰った者もいました。』

D排泄の苦労
 『平時と違って先を急ぐので、停車している暇はない。ほとんど立錐の余地もないほど詰め込まれていますから「小」の方はそのまま、「大」の方は順送りして窓から捨てた。』

E満鮮国境越え
 『国境で白頭山を越えなければならないのですが、列車が重量オーバーなので喘ぎあえぎ登り、もう一息というところでガラガガラーンと空回りして坂を滑り落ちて戻ってしまう。何回くり返しても駄目でした。弾丸よけに積んでいた砂嚢の砂を撒いてみたが、無駄でした。そこで、先頭に降り立って、貨車にとりつき「歩ける者は降りて歩け、押す力のある者は押せと命令し、必死に押し上げた。この時ばかりは、神仏に祈りました。」

2.吉林芸者、日本兵との別れ
@吉林芸者
 『列車が吉林を出発しようとする時、年齢17、8才〜24、5才までの日本人女性約20人、身元を聞くと吉林の某料亭の芸者で「内地に引き揚げたいのだが、列車が動かないので、どこでもよいので軍用列車に乗せてくれ」とのこと。殆ど長襦袢に帯という様子、気の毒に思い許可したのだが、朝鮮と満州の国境輯安に着いたとき、鴨緑江を渡れば日本に着く、その時私は、軍用列車に芸者を乗せて帰ってきたと思われたくない、という詰まらぬ考え方で芸者を降ろした。しかし、一歩朝鮮に入ると満人の態度より朝鮮人の態度が一層悪い。今考えると、名誉とか恥を捨てて何故一緒に内地まで連れて帰らなかったと、今でも申し訳ないことと思っている。』

A日本兵の意気
 『朝鮮に入る前、他部隊の下士官、兵十数名が乗車の許可を求めてきた。「私の部隊は白頭山に籠もるんだ。残務整理で遅れたので乗せてほしい。連隊長が、日本軍は負けたけれど、近く日本軍は鴨緑江を渡って満州に攻め入る。その時に、白頭山を下りて先遣部隊として働くのだ」と話してくれた。恐らくこの部隊は、冬季になって、殆ど凍死したものと思うが、日本兵の意気にいたく感激した。』


V 朝鮮における出来事

1.砂糖、牛缶の購入
 『京城で中学校4校を利用して兵站病院を開設した。間もなく、仁川の三菱倉庫長が来て「仁川の三菱倉庫に、満州及び朝鮮に送る莫大な砂糖及び牛缶が貯蔵してある。近く米軍が上陸すると、恐らく全部没収されるだろう。嘉悦閣下の部隊はトラックを沢山持っていると聞きましたが、仁川から京城まで運んでくれませんか。お礼として半分病院に差し上げる」という話である。自動車は、乗用車、トラツク計36両があつたが、しかし、部隊が商人から商品をただで貰うことは出来ないし、聞こえてくるところでは、内地では砂糖及び食糧には非常に困っているらしいので、若干食指が動いて「ではその一部を公定価格で買おう」という約束をして購入した。当時、病院で持っていたお金は約35万円だったが、もうこれからは金はいらぬと思い、あるだけのお金で砂糖1袋(16貫―60kg)400円で約6,000袋と牛缶を購入した。』(このお金が後で役に立った)

2.京城兵站病院巡視中の獲物
 『ある病院(中学校)を巡視中、二、三の教室に鍵のかかっている部屋があったので、開けてみたところ、殆ど新品の毛布数千枚、軍服、靴等が数千着格納されてあった。これは満州駐屯の航空士官学校生徒が数ヶ月前満州引揚げの際、「京城被服廠で全部新品と交換して帰れ』という陸軍省の命令で、新品と交換したもの格納していたものであった。
何故、在留の日本人一般、その他に知らせて財産の一部でも持ち帰る処置をとらなかったか、その時私は遺憾に感じた。これをそのままにして置いてはつまらぬと思い、無断で撤退資金の一助にと、これを競売に付して金に換えた。翌日から、闇市にこれらが大量に出回った』

3.(日本の)朝鮮軍の情勢判断について
 『三菱倉庫長の話その他の情勢から判断して、近く米軍が朝鮮に上陸すると考えた結果、成るべく早く京城を引揚げ内地に帰る決心をした。そこで朝鮮軍司令官上月中将に「京城に兵站病院を開設したが、一兵も満州から患者が送還されてこない。(私の部隊が38度線を越えた3日後に38度線で北鮮軍が線路を外した)京城に病院を置いても意味なしと判断し釜山に引揚げ」の意見具申をし、その許可を得て転営の準備にかかった。そのため、軍から自動車隊を派遣してもらつて、駅まで患者、荷物を運んだが、あと1日というところで、自動車中隊長が突然「お暇をいただきたい」と申し出て来た。「軍司令官からの命令で明日米軍が仁川沖に上陸する。日本軍は24時間以内に京城から5里以遠に撤退すべし」ということであった。しかし、私は「それは困る。患者及び衛生材料だけは停車場まで運んでくれ」と懇願して、漸く列車は京城を離れることが出来た。当時、幕僚及び軍医部長の話では「朝鮮はまだ大丈夫だ。まだ米軍は上陸しない」というように聞き取れた。そうだとすれば大変に間違った判断の下に行動していたことになる。』


W 釜山から博多へ

1.博多港へ―帰還後の出来事
 『京城を引き揚げて釜山へ着てみると、釜山には内地帰還のの邦人が数万人集結していて、兵員及び荷物の早急帰還は到底不可能だとわかり、やむを得ず病人並びに婦女子だけを関釜連絡船に乗せ、兵員と荷物は、朝鮮人所有の闇船(約7〜100トン位のポンポン船)を6隻、36万円で運んでもらう話がついたが、有り金が一文もなく、仁川で買った砂糖を売った。それがなんと1袋8,000円で売れ、約50袋売却して闇船を雇うことが出来た。兵員300、米約1,000俵、衛生材料その他の食糧、砂糖5,900袋、牛缶を積んで釜山を出た。普通博多までは半日で着くところ、丁度1週間かかって漸く博多についたのであった。持ち帰った物資は、すべて西部軍司令部に届けた。』

2.傷病者の病状経過
 『5千数百名の傷病者をハルピン出発後約2ヶ月の月日を費やし、博多まで連れて帰ったが、途中は勿論、十分なる治療、投薬、包帯交換は出来ず、極めて不完全な治療をしてきたけれども、内地到着後殆ど全部が付添を要しないで各家庭に帰郷せしめた。これは全く奇異な感じが致すが、要は「病は気から」という諺にもあるように、精神力というものが非常に関係していると思う。非常事態に、自分の病気が治らなければ満州に残される、朝鮮に残される。後はどうなるかわからぬ。何が何でも丈夫になってどうしても内地に帰らなければならぬという精神力によってこういう奇蹟を生じたのではと私は感じた。』

3.米軍検事局よりの出頭命令
 『帰国するや否や米軍検事局からの出頭命令を受けた。「嘉悦は東部軍軍医部長時代、米軍捕虜者の診察並びに取扱いについて遺憾の点があった。よって本日より裁判にかける」という申し渡しを受けて、連日裁判を受けた。しかし、その内容は実につまらないことで、例えば「B29の搭乗員捕虜に豆腐の汁(豆乳)を飲ませた。お灸をしたら、火あぶりの刑をやった。傷病者に木の根を食わせた」という。実は牛蒡のキンピラを与えたことがあったことを「木の根」を食わせたといった類である。この途中で、米軍検事の態度が一変した。裁判の途中で菓子を持ってきたり、食事も特別のものをだしたり、非常な変わり方であった。後に分かったことは、軍医部長時代、横浜の捕虜収容所を視察した折り、黒人の軍人が腎臓病で悩んでいたので、治療に当たっていた米軍の軍医に「牛乳はやっているか」と聞くと「牛乳は日本軍からもらえない」と聞いたので、部下に「ミルクを送ってやれ」と命じたことがあり、その軍医が帰国して新聞記者に話したところ、丁度裁判中にStars and Stripesという軍の新聞に「日本軍にも非常に親切な軍医がおった。嘉悦軍医中将である」という記事が出て、それが日本に届いて、検事の態度豹変になったようである。』

4.ソ連在留の日本軍捕虜の員数
 『東京帰還後、陸軍省に呼ばれ、ソ連在留の日本軍捕虜はどの位かと再三聞かれた。日本の当局としては、満州の日本軍は37万人いた、捕虜になったのはどの位かと聞かれる。私は「せいぜい2万位しか捕虜になっていないだろう」と答えたが、新聞では、37万人と記載されていた。日本の当局者としては2万人に同調していたと思うが、米軍が日本国民とソ連軍との離間策として37万の捕虜ありとの発表を強要したものと思う。当時ソ連は、日本軍捕虜は1万5千と言い張っていたが、その他の30数万人は各種の状況(病死、凍死、満人のためによる死亡、自決)の下に抹殺されたのである。』

5.悲惨なる日本人孤児
 『ソ連軍の捕虜として輸送中列車から逃亡して帰国した兵が話すのに、満州で一番悲惨に思ったことは、日本人の7歳以下の孤児は約3万人、これをソ連は見殺しにすることも出来ず、ある場所に収容していたが、被服、食事、その他十分に行き届かないので、数ヶ月の間に殆ど全部死亡してしまった。この兵は、死亡した孤児を毎日数百人づつ埋める仕事をさせられ、見るに忍びない状況であったと述懐していた。』

6.夫人の死
嘉悦中将がハルピンで撤退わ決意していたころ、登代子夫人は、すでに乳ガン手術後の転移性胃癌の病床にあった。中将は、一切の特別待遇は許さなかったという。博多に着いた夫人は、衰弱著しく部隊の復員が完了した翌10月12日、45才の若さでこの世を去った。