雨宮栄一は今年80歳、プロテスタントの著名な神学者である。この著の題名はメメント・ドミニ、メメント・モリからとられた。ペストなどの死病の蔓延で、常に死を念頭に置かなければ生活できなかった中世キリスト教国の格言である。とはいえ、この本の焦点は中世ではなく、現代の日本のプロテスタントキリスト者が、死について思い巡らすことの少ないさまを分析し、これで良いのかと問題提起をしている書である。
私も同じクリスチャンであるが、カトリックであるため、プロテスタントとではかくも死に対する思いや姿勢が違うのかと知って愕然とした。まず第一部私たちにとって死とは何かではと題して、まず江藤淳の自殺を取り上げる。江藤は妻をなくしたあと自らが脳梗塞を病み、その身はもはや形骸に過ぎずとして自死した。その是非を巡って、多くの論議が交された。同じ境遇にある人に対して、酷なことではないかというのが、代表的な批判である。ある意味ではこのような批判に耐えない自死でも、賛否両論あるがごとく、日本人は古来、人の死を無常な自然の一部としてとらえ、漠然と自然に帰るとして、深刻に突き詰めることが無く、ある意味では無原則である。
日本のプロテスタントも「自分の死にそれほどこだわることは無い」と考えていると、著者は言う。この世における神の召命を重んじて、自分に与えられている1回的な生をひたすら生きんことを願っている。死とか死後の世界に拘泥することはしない。死と死後の世界のことは神のみ手にすべてをゆだねるのであって、人間のかかわりあうことではないと考える。死の非秘儀化である。
20世紀のプロテスタントの代表的な神学者カール・バルトもそのように説いた。神から与えられた一度だけの機会が人生であり、それを決意を持って生き抜くことが、神に求められることである。神から貸与されたこの生は死をもって終わるのであり、その限界を常に意識して、退かないでよき生き方をする決意こそ、死の恐怖を避けることのできる道であると説く。死を超えて在る無限性を思うことは、死のもっている現実性から目をそむけようとするものだ。という。
このようなプロテスタントの生死観はその先駆者であるルターやカルヴァンに源がある。
彼らが当時のカトリックの堕落を批判した焦点は、免罪符の販売で冨を吸い上げたことにあった。免罪符の根拠は、死後の魂はすべて、清めのために煉獄に留めおかれ、この世の子孫の代願で煉獄に置かれる苦しみが短縮されるとするところにあった。彼らはこれを腐敗の元として根本から否定した。
翻ってカトリックの一人として私の生死観を述べておこう。カトリックも1965年から20世紀末にかけての自己批判によって、煉獄の思想は無くなった。「この世の終わりの時の裁き」も消えつつある。イエスが来られたのは裁くために来られたのではない。人間に愛することの至上価値を教えるために来られた。愛が支配する神の国の建設は、人間が参画する神との共同作業による営々たる建設によるほかは無い。その努力に励む人間に対して、イエスは、神を信じる者は永遠のいのちが与えられるといった。死のとき、一瞬にして朽ちない存在に変えられるのだ。それは神秘である。その永遠のいのちの中身は、この世の生でしか得られない精神的成熟した魂でしかありえない。(2007/6/3)
成熟する死生観
皆さんのリポートを読みながら一つの作業仮説を思い浮かべました。それは人生経験とともに深まる死生観です。それを簡単な図式に描いて、皆さんの討議に提供してみようと考えました。
幼いときに経験する人の死は、恐ろしさを抱かせます。自分の両親もいつかは死ぬのかと思うと、幼心は恐怖にかられます。それは幼いながらの死生観のはじまりでしょう。それは次第に不条理とか不潔感を伴い、なるべく見ないで過ごしたいと思います。
やがて成年に達し、多くの死を経験することで、死を必然のものとして、落ち着いて受け止めるようになります。でもまだ他人事でうわっつらです。
転機を迎えるのは、両親など身近な人の死を見取るとか、自分が死に近付く経験をするときです。死を始めて深刻な人生の課題として向き合います。
人はそこで態度は分かれます。多いのは死を常識の範囲で納得してしまうのです。死後の世界など科学的ではないとして、死はただ人生の終着点としてしまいます。せいぜいそこで社会的な役割だけは果たそうとします。伊藤検事長の「人は死んだらゴミになる」と言うのがその典型でしょう。
でも死後に何も無いと信じるのは科学的なのでしょうか。決してそうではありません。科学的な態度というのは、科学では生と死は解明されていないので、分からないというものです。科学という分析的手法では、いのちを解明できないと同じように、死も解明できません。
そこで死を人生の最大の課題ととらえたならば、その最上の立場は、死を克服しようとすることではないでしょうか。死は克服できると多くの先達は教えてくれました。偉大なスピリチュアルな人たちです。今回の紹介されたリポートでは、往生要集を書いた源信もそのひとりです。イエスも同じように、死後の新生は難しいことではない、あなた方の席は用意してあるといいました。彼らはそれを求めなさい、最後まで確信をもって求めなさいといっています。
近代の哲学者ベルグソンは、生命の飛躍の理論を打ち立てて、人間によって、初めて、有機体に縛り付けられた生命としての死は克服されるであろうと述べました。
彼は、死の克服の道筋をも、示唆したのです。それは、その原動力である人間の精神の開花を、とことん進めることで死も克服できると暗示しました。
そうであれば、死の克服こそは、人間に課せられた崇高な仕事といえます。それは個人個人によるほかは無いのですが、やがて、長い目で見れば、集団としての人間種にも期待されることなのでしょう。(2007/8/28。)
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