「 この1冊と私の死生観」
                 

小原秀雄編         万物の死 
               − 自然の死から<死>を考える −
              
 
                                         

森  毅一  (76)
1931年東京生まれ。
1945年空襲で自宅全焼し鎌倉へ移住。
1952年大学卒業後、教科書会社に入り、
以来、教育関係図書を中心とした編集者として
出版会を彷徨し今日に至る。
現役続行中。

  改めてこのテーマに向き合ってみて、これまで余り考えたことのないテーマで、漠然とした思いしか浮かんでこない。そこで与えられたテーマに「この1冊」とあるので、身の回りの本を探してみた。いくつかの本が出てきた。そこでとりあえず次の本の紹介とわたしの感想を述べることにします。

第1章 動物の死 小原秀雄(1927年生まれ 専門は哺乳類学)執筆時年齢70歳
   第2章 植物の死 平野和彌(1933年生まれ 農学博士 専門は植物病理学)同64歳
   第3章 細胞の死 堀  誠(1932年生まれ 薬学博士 専門は生化学)同63歳
   第4章 人間の死 松田重三(1944年生まれ 医学博士 専門は内科学)同53歳
   第5章 宇宙の死 小尾信彌(1925年生まれ 理学博士 専門は天文学)同72歳

第1章 「動物の死」 

 筆者は、”はじめに”で「…複雑な自然との関係を持つ人間が、これまでは自然を征服し、文化や文明は自然と相反するものとみなし、そのようにつくってきました。しかし、現在はその関係を見直して、自然との共存や共生が語られるようになってきました。文化や文明の新たな再生がはじまったといえましょう。生も死も、こうした立場から問い直されるべきでしょう。」と述べている。問い直すとはどういうことなのか? 特に「死」について…。
 筆者は、哺乳類を中心とした動物学(比較生態学・比較行動学)の研究者であり、その当時、自然保護と野生動物の保存などについて、国内的にも国際的にも活躍していた。第1章の「動物の死」の構成は、第1節・アフリカゾウの死 第2節・動物の死と人間の死 第3節・進化の視点から となっている。

 第1節でゾウの自然死について語られ、それを受けて第2節では動物の自然死に対する人間の死について述べている。そこでは「人間という動物」の項で「人間は自分で自分を飼い慣らしている動物である」と言い「人間は、自分で作り出した社会的生産物とシステムによって飼い慣らされた動物なのです。」従って、この飼育に当たっての条件を改善していくことによって、寿命を長くしてきた(生命のコントロール)、「生」が自然から切り離されてきたのだと。では「死」はどうなのか?
 死は、自然のもつ一つのシステムで、自然の中での「死」はすべて「生」への循環の中にあるのだが、「…人間は、文明の発達とともに『自己の家畜化』が進むにつれて、人間(ヒト)自身をすっかり囲い込むようにして飼っているので、自然から切り離された環境の中に住んでいます。したがって、死者が自然の中に帰れないような状態を作り出してきたといえましょう。葬儀、食事などが儀式化されていくにつれて、もちろん自然の食物連鎖から遠ざかるようになりました。死体は、土葬ななら微生物の働きで、一部は自然の循環の中に戻ります。しかし、火葬で燃やされることによって、原子としてはともかく、自然生態系に還元されることなしに失われます。ネアンデルタール人以来、人類は文化の進展につれて、しだいに大自然の循環から外れる方向に歩んできたことは疑いありません。」

 ここで、近代文明の延長線上の現代文明の終焉を言う(三水会誌3号p.189)私は、搾取と収奪、殺戮の連鎖の中に世界を落とし込んだ現代文明・資本主義社会の死の姿を確認し得たように思えた(筆者は『文化や文明の新たな再生がはじまっている』と)が、ここに入り込むことは本題から離れるので、次に話を進めることにする。

 第2章 植物の死

 この章では、「植物の死が人類の生存にとって重大な問題をもっている」が柱となっている。これはやはり、自然の循環の中での植物の役割が非常に大きいことだということなのだ。ところがこの植物の死は、大地に根を張り動くことがないので、動く動物の死からすると分かりにくい。落葉樹は冬に葉を落としまるで死んだようだが春になれば芽を出し花を咲かせ葉を茂らせる。また、原爆で焼けただれ黒こげになった木も現在は記念樹として広島の爆心地にあるという。東京大空襲で灰燼となった下町にも、兵庫大地震の焼け跡にもそのような樹木があるという。これほどに植物の生命は強くその死がどこにあるのかが分かりにくい。そして、この植物が光合成によって有機物を生産し、動物がこの有機物の消費者として生存するという恩恵を受け、そしてまた、人間はこの植物を切り花として家に飾ったり、庭に植えたりするなどして癒しを得、愛でているのだが、これが枯れてしまえばポイとゴミとして捨ててしまうというように、あまり植物の死には感心をもっていない。

 第3章 細胞の死

 この章は、体重60kgの人には約60兆個の細胞があり、この細胞は1日に数十億個が死に、新たに生まれているという。 人間の体内では常に細胞の生と死が繰り返されているわけで、これが生きている証なのである。
 ここでわたしは久米川先生の破骨細胞と骨芽細胞のことと、歯の寿命の話を思い出した。

 第4章 人間の死 この章がメインだと思い、先に 第5章 宇宙の死 を読むことにした。
 ところが、10の18乗光年(100兆年の10億倍)という想像を絶する時代の話なので割愛することにした。

 第4章 人間の死

 この章がメインだと思い読み進んだが、筆者はこの執筆メンバーの中でいちばん若い医者で、医者として出会ったいろいろな死の姿や、脳死や尊厳死・安楽死などの話が中心であった。死生観とは少々離れているように思えたのだが、ただその中で一つ面白かったのは、この著者自身の体験談であった。それは、筆者自身の二番目の右足指に、小豆大の黒い腫瘍ができたのを自分で見つけたときの話である。「こう見えても医者の端くれ、悪性黒色腫と自己診断したが、素人の患者と同様、それを否定する気持ちも強い。」この悪性黒色腫については、「発見したときには手遅れということが多く、転移が早く、手術や化学療法をしても1年生きられればいい」ということを、筆者は医者としてみな知っているわけである。

 そのうえで「悪性黒色腫の大家といわれる2人の教授に診察してもらったが、『君も医者だから正直に言うが、紛れもなくこれは悪性黒色腫だよ』疑いがある、くらいで少しは私の心に逃げ道を作ってくれればよいのに、死の宣告を有無を言わず受けたのである。医者も、患者となれば普通の人間である。周囲の人間も、物も、すべて白く見えることに気がついた。これは、死の宣告を受けた者が、現実の世界を別世界と認識するために生じる『離人体験』とよばれる現象である、と知ったのは大分経ってからのことである。」このあと筆者はしばらく酒に逃避する日が続いたそうである。そして結局手術を受けることにしたのだが(診断を受けた大家とは別の医者で)、その結果は悪性黒色腫の大家の誤診だったそうである。そして筆者は「何人たりとも死から逃げることができないできないものである、とつくづく感じると同時に、それ以来いつでも死を受容できるような気持ちで生活している自分を見出した。」と語っている。

 確かに「死」についてはそれに直面してみなければ考えられないであろう。だがこの先生のように、「それ以来いつでも死を受容できる」ものなのだろうか?このあと筆者は「死を体験する」という項で”臨死体験”について書き、その最後に「私たちは毎日、無意識に死を体験している。そう、睡眠である。目覚めることを前提に”死んでいる”のだが、ぐっすり眠ることを”死んだように眠っている”などと形容するごとく、睡眠中はまさしく死の世界である。逆に”眠るような死”と形容される死もあるように、眠ることと死ぬこととは、あるいは同次元の世界なのかもしれない。いずれにせよ、眠るような安らかな死を迎えたいものだ。」同感である。

 同感したところで私は、”眠るような死”ということは、天寿を全うしての死なのだと気付くとともに、この死を人が「大往生」ということ、つまり、往生は、「この世を去って他の世界に生まれ変わる」こと、死ではない生まれるのだと知った。仏教で言えば「極楽浄土に生まれ変わる」であり、キリスト教では「昇天、天に召される」である、「死」ではないのだ。
 「この世に生を受けて人生を全うし大往生を遂げる。」私はこうありたいと願うものだが、喜寿を迎えて、人生を全うするまでのもう少しときを頑張りたいと思う次第である。

 
 
氏  名
紹介本とテーマ
 
伊藤 公博 二宮翁夜話   福住正兄著
岡本 好廣 われわれは何故死ぬのか   柳沢桂子著
栗生 晴夫 人は死ねばゴミになる   伊藤栄樹著
森   毅一 万物の死   小原秀男編
小寺 隆三 秘花   瀬戸内寂聴著
木村  勉 日本人の死者の書―往生要集の
(あの世)と(この世)
大角修著
湯沢 勝利 “How to”の視点からの死生観  
伊藤 公胤 西行花伝   辻邦生著
平井  保 夜と霧   ヴィクトール・E・フランクル著
野口 幹夫 主を覚え、 死を忘れるな   雨宮栄一著
堀添 勝身 民族の潜在意識は神話を見よ  
小関  栄 生命の暗号上、下   村上和雄著
鈴木  登 たった一度の人生だから  日野原重明・星野富弘 対談