| 「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」
73歳で生涯と閉じた西行はどのようにしてこの境地に至ったか。
元永元年(1118年)紀州紀ノ川の荘園領主の家に生まれた佐藤義清は家督を弟の譲り、北面の武士として朝廷に仕えた。母の死、出家して西行と名乗った。時に23歳。
出家の動機は、
(1)朝廷内の権力争いからはじきだされた待賢門院の心を受け止めるため。
(2)先が見えすぎたため世の中の出世競争が馬鹿らしく見え出した。
出家しても待賢門院の近くに居住していたが、その死後陸奥、四国を旅行し、修行を重ねた。また保元の乱に至るまで崇徳院を「和歌の道」をとおして精神世界の主たるようはげました。このように出家しても俗事にも深く関与していた。
小夜の中山での挿話は西行が抱いていた宿縁を強く感じさせるものである。
陸奥への途上、小夜の中山の山中で、自害しようとしていた清原通季の妻を助けた。時々にそのことを思い出して書かれている。「私はみちのくで北上の流れを見たときも、女のことを思い出した。この強い、ねばりけのある、滔滔とした流れ、うちに強い思いを秘したこの静かな川面の動き-それがあのけなげな女の本当の姿だった。私はそこの人間の生きる願わしい姿を見たと思った。
すべてを宿命(いのち)に託すこと・・・」
「年たけて また越ゆべしと 思いきや いのちなりけり 小夜の中山」
東北への旅行では貧困、盗み、闘争など人間の営みのあらゆるものを見聞きした。西行はそれらも仏の定めだという。結果をさしてのことではなく起こってくる事象、事象がいわば定めの網目だという。ではその定めはすべて受容するしかないのか。
「・・・人はそのさだめに意味を与えるものとなり。定めたら自由になることはできる。定めの無情に対して、いささかも恐れぬのが、誠の歌人であろうな」と悲観的宿命論を脱却する途を説く。そして「歌にいのちをかけるものは、時の流れを超えて生きる。」
第二次陸奥旅行の帰り箱根を越えた折 「風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ 我が思いかな」時に西行48歳。重源の大仏建立のための勧進に協力し、奥州の藤原氏から黄金の寄進を受け、都へ運搬するには道中の安全が保障されねばならなかった。その保障を取り付けるべく鎌倉の頼朝へ交渉に向かったのだった。
帰京の後、陰陽五行の理法を習得し、それによって世の人々を救済している玄徹なるものが生きがいを十分感じられないと相談に来る。
「能力(ちから)は人一倍あり、人のためにも尽くし、天地の秘法にも通じているのに、どうして心が満たされないのか。ひっよとすると、真言念仏の心を忘れたためかと、ここ何年かはひたすら念仏三昧に暮らし、実はこの夏も、念仏を唱えながら、ひたすら西へ歩き続けたのでございます。・・・」
「西行の弟子秋実「最後はどうなったのです」
「海をのぞむ断崖で仏陀の御声が聞こえるまで念仏を唱えました。何も聞こえず、ついには気を失ったところを咲いているゆりの花を見つけた猟師の妻に助けられました」
西行「・・・ゆりの花は言葉だったのです。この生きとし生けるものが玄徹殿のかわりに猟師の妻に向かって叫んだのです。・・・」
西行は「定めを受け入れたら死は恐ろしくない」という。
1190年で生涯を閉じた。
平安、武士の台頭、平家の隆盛、源平の戦い、鎌倉武士の統治など目まぐるしく変化する時代を「俗にあって俗から離れて生きた」ひとであった。
今の言葉で言えば「グローバルに考え、ローカルに行動する」ことか。
同時に死に対峙するほうを教えてくれる。
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