| 私は50歳を過ぎたころから会社の行き帰りに少々自分の人生の意味を考えるようになり、やがて二宮尊徳に行き着きました。私は今回「尊徳自身の語る二宮尊徳の死生観」をとりあげたいと思いましたが、尊徳はもっぱら行動の人で、おびただしい農村復興の計画書、行動記録(業務日誌の類)、書簡は残されているものの、己を語る著書はありません。しかし彼の生き様思想を語る門人の著書は数多く、代表的なものに、尊徳の全生涯を紹介した「報徳記」(冨田高慶)、尊徳の日常の言動を筆録した「二宮翁夜話」(福住正兄)・「報徳外記」(斉藤高行)などがあります。その中から尊徳の死生観を理解する手がかりとして二宮翁夜話の現代語版(現代報徳全書−9−二宮翁夜話 上下(以下夜話))を紹介します。
夜話は、22歳の正兄が尊徳に入門した1846年から辞去する1850年までに(尊徳59歳〜64歳)学んだ6年間の手控え「如是我聞録」を、明治17年〜20年にかけ整理し出版したものです。この時期は尊徳「試練時代」と称される受難の季節でした。56歳で公儀御普請役格として幕臣に取り立てられはしたものの、念願とする農村復興事業とは程遠い閑職に追いやられ、2年かけ心血を注いで作り上げた64巻の企画書「日光仕法雛形」は棚晒しにされ、更に小田原藩の仕法打止めという追い打ちがあり、やっと日光仕法実施命令が下りたのは嘉永6(1853)年、67歳のときでした。
この間尊徳は鋭意後継者を育てることに努め、福住正兄、斉藤高行など多くの門人を育てます。正兄の夜話や高行の二宮先生語録はこの中で生まれました。尊徳の晩年は、仕法推進と病との闘いの日々でした。病床から仕法に携わる門弟を指導し、時には病を推して自ら険しい山村の実地調査に徒歩で赴くという日々が日記に記載されています。安政2年幕府からの蝦夷地開拓の依頼があり、また翌3年2月には御普請役への昇進など、事業の展望が開けてきたとき彼は道半ばにこの世を去ります。安政3(1856)年10月20日70歳でした。報徳記で「先生ほどの雄大な才能、卓抜な行為がありながら、終身不遇で遂にその偉業を十分に振るうことができず」と富田高慶を慨嘆させた生涯でした。
正兄は嘉永3年に尊徳門を辞していますので、尊徳の死に立ち会っていませんが、伝聞として「分を超えるな・墓石も碑も立てるな」(注@)という遺言を夜話に載せています。また尊徳は没年(安政3年)とその前年の日記最後のページに遺言を口授筆記させております。この二つの遺言は夜話には記載はありませんが、現代語版編集の際、編者佐々井典比古氏の手で補注として収録されております。注@ 3つの尊徳の遺言は読者に尊徳の死生観をあれこれと考えさせてくれます。
注@ 夜話〔281 翁の遺言 〕伊東発身の話によれば、翁が重態になったとき、左右にいる門人にこういわれた。― 私の死ぬのも近いうちだろう。私を葬るのに、分を越えるでない。墓石を立てるでない。碑も立てるでない。ただ土を盛りあげて、そのそばに松か杉を一本植えておけば、それでよろしい。決して私のことばにたがってはならぬ。
補注 「安政二年十二月末日の日記に「余が足を開け、余が手を開け。余が書簡を見よ、余が日記を見よ。戦々兢々深淵に臨むが如く、薄氷を踏むが如し」とあり、又安政3年の日記の末尾に、漢文で「先生疾病に伏す。門弟子を呼んでいわく、鳥のまさに死なんとする、その鳴きごえや哀し。人のまさに死なんとする、その言や善し。慎めや慎めや小子、速やかならんことを欲するなかれ。速やかならんことを欲すれば大事を乱る。勤めよや小子、倦むことなかれ」とある。
|
U.尊徳の死生観
1.尊徳の「報徳仕法」への思いと生死観:[夜話247 親の心で一途に世に尽くす]
尊徳の3つの遺書はいずれも仕法の永安を願ったものでした。執念とも言える仕法への思いに敬服します。夜話にこんな話が載っています。「親の子に対する立場と同じ心で、見返りがあろうとなかろうと、限りある一生を仕法の発展に尽くす」という仕法への彼の決意です。
[夜話247 親の心で一途に世に尽くす]
・・・およそ人と生まれ出でた以上は、死ぬことのあるのは必定だ。長生きといっても百年を越えるのはまれで、限りの知れたことだ。若死にといい、長生きといっても、実は取るに足らぬほどの相違で、例えばろうそくに大中小とあるようなものだ。大きいろうそくでも、火のついた以上は4時間か5時間のことだろう。だからして人と生まれでた以上は必ず死ぬものと覚悟してしまえば一日生きれば一日のもうけ、1年生きれば1年の得だ。だから本来わが身も我が家もないものと覚悟すればあとは百事百般みんなもうけだ。私の歌に[仮の身を元の主に貸し渡し 民安かれと願うこの身ぞ]。つまりこの世は、われひと共にわずかの間の仮の世なのだから、この身はかりの身であることは明らかだ。元のあるじとは天のことをいう。この仮の身をわが身と思わずに、生涯一途に世のため人のためばかりを思う。国のため天下のために有益なことばかりを勤める。そうして一人でも一家でも、困窮を免れて富裕になるように、土地も開け道・橋も整って安穏に渡世できるようにと、それだけを日々の勤めとし、朝夕願い祈っておこたらぬ、わがこの身である、というような心でよんだものだ。これが私の畢生の覚悟だ。わが道を行なおうとする者は、これをわきまえていなければならぬ 。 |
2.開闢史観 ―「いのち」はどこから来たか : [夜話7 根源に報いる]
尊徳は「いのち」をどう捉えたか。尊徳には[開闢史観]といわれる進化論があります。それは大極と呼ばれる「混沌」の中から環境と融合して天地が現れ、日月が現れ、雲が発し雨を降らす。それが何万年も続いた後初めて地上に苔が生じ、土ができ、草が生じ ・・・地上に最後に人類が現れ、農耕が始まり社会制度が整うという現代までの地球の生々発展を論述したものです。(万物発言集草稿) これを、自分の命(身体)から逆にその根源を辿っていけば、「身体の根源は、父母の生育にある。父母の根源は、祖父母の丹精にある。祖父母の根源は、その又父母の丹精にある。こうして押しきわめてゆくと天地の大生命に帰する。そうすると天地は大父母だ。」自然の恩、親の恩に報いるには、今日ただいまの丹精を心がけよと説きます。(夜話7 [根源に報いる])。今の自分の身に対する善行がそのまま親、自然への報恩だということです。 ところでこの考えを周りの草木、虫魚、動物に及ぼしたとき、人間は他の生き物の命をほしいままにしているが、地球上の生物はすべて天の分身だと気付きます。夜話44
[万物ことごとく神・仏]で「・・・本来は人と鳥獣と草木と何の区別があろう。みんな天の分身なのだから、佛道では悉皆成仏と説いている、それなのに生きているときは人で死んだら仏になると思っているのは間違いだ。生きて仏であるからこそ死んで仏なのだろう・・・]
万物の長である人間は悪を廃し善を行うようと勤めるのだが、善行といっても所詮それは人間の世界だけの話です。尊徳は言います。「そもそも人間は米食い虫だ。この米食い虫の仲間で立てた道は衣食住になるべきものを増殖するのを善とし、この三つのものを阻害するのを悪と定めている。これが人道である。天道には善悪はない。天道に従いながら違うところがあるのが人道だ。」(夜話108[善悪は米食い虫の定規]) 。自然に対し感謝し、謙虚な態度で生きなければならぬ、と考えているのだと思います。
3.この世と来世― 地獄極楽はあるのか:[夜話112 地獄・極楽の存否]
尊徳は地獄・極楽の存否を問われて、それは取り出して見せることはできないから、「あり、なし」は空論に過ぎないが、人の死後に、生前の行為の因果応報ということは、なくてはならぬ道理で、現世で見られる借財に苦しむ生活が地獄であり、安定した生活が極楽だ、それは前世から見た来世の姿だと答えます。(夜話112[地獄・極楽の存否])。夜話135[現世の報恩勤行]では、草に例をとって「来世によい実を結ぶには現世の草のときに丹精しなければならぬ、として、人間も来世がよいように願うなら現世で善行を勤めるべきだ」と現世の行いの大切さを諭します。
V.私の死生観
l 自分の死生観を思ったとき尊徳の遺言を思いました。私なら何を残すか。尊徳における仕法のように、死に臨んでもその発展が気にかかるようなものが自分にもあったらいいと思いましたが、凡人の悲しさそれはありません。私は普通の人なら誰でもできるような社会的貢献を、報徳のいう推譲の精神で「積小為大」、生涯かけて積み上げてゆきたいものだと思います。今の自分のささやかな社会的活動が、そのように発展することを期待しているところです。
l 私は自分をいわゆる無神論者だと思っております。信ずべき神も仏も有りません。したがって神、仏を拝んでお願いする心境にはなれません。それなのに神道、儒教、仏教の真髄を融合させたとする報徳に心酔するのは何故か。それは尊徳の話が非常に合理的で分かりやすいこと、仕法の実践に捧げた一生の誠実、強固な意思に対する信頼感によります。
例えば開闢史観といわれる尊徳の[万物発言集草稿]では有史以前の未開の時代を[天津神の御世]といっており、そこには奇跡の考えは一つもありません。最後に人類が現れ、食糧にゆとりができて社会が構成され、その指導者として天照大神の役割に言及します。そしてこのような人類社会の発達史はどこの国も同じと断じます。私には過去、現在、未来を貫く弁証法的思弁は江戸時代に書かれた歴史観なのに、現代の書とも思えるほどに非常に新鮮に受け止められます。
l 1945年の冬、瀋陽(旧奉天)の広い道路を黒い材木のようなものを積んだ何台もの馬車が通るのを目にしました。それが難民の死体であることはすぐ分かりました。衛生上凍っているうちに集めて焼くのだと聞きました。神・仏はいないと思いました。引揚てきて18歳の夏、母をなくしました。
何も祈るまいと思いました。そんなことが私の考えに影響を与えているのでしょうか。以来無心論者を決め込んでいますが、私の妻をはじめとして、信仰を持つ人には羨ましさと、尊敬の念を持ちます。トルストイに感じるような信頼できる誠実さを感じるからです。
l 私の岳母は104歳で逝去しました。お茶が飲みたいと起きてきて茶を啜りながら私の腕の中で息を引き取りました。私もできればこのような死に方をしたいと思っています。そのためには健康で長生きが必要です。今を健康に生きることが肝要と思っています。
|