一、 知性の限界・科学の限界
「いのちは科学では解明出来ない。いのちの探究は認識論の探究と重なり、直観に支えられた哲学によってのみ解明される」とベルグソンの手法を述べ、その論拠として次のように展開された。
科学では事物の反復相しか捉えられない。還元不可能なもの、不可逆的なものは科学になじまない。これらは哲学の範囲である。
人間の持つ知性、動物の持つ本能もその関係性や事物の認識は出来るが、知性による認識は物事を分断して認識するように努めるため非連続的で不動性を帯びる。知性は生成を捉えることが出来ない。本能による認識は外面化した行動とは逆に、内面化した認識となるので生命の奥深い部分まで洞察出来る。「直観」は利害を離れ自己自身を意識するようになった本能であり、その範囲は無限に拡大する。
人間にとって知性は光り輝く中心であり、本能的直観はそのまわりを定かならぬ星雲を形作る。意識を拡大させて無限に続く創造としての「いのち」を追及する。
二、 いのちの本質
「いのち」は宇宙の始まりから全体として一つの中心から発して伝播して行く巨大な波であり、永遠に創造を続ける。意識を内から直接的に眺めた時、切れ目ない移り変わりが「いのち」の本質。「いのち」とは波の躍動の連続である。この「いのち」は身体に依存している。これは我々が考える有機体としての身体よりは、宇宙における特殊な存在としての物体「行動の中心」になるものである。有限の寿命はやがて崩壊するが、これは身体が死ぬのであって「いのち」ではない。「いのち」は「躍動の連続」、永遠に続く動的状態で、創造の波である。この宇宙のはじめからの永続的な波はベルグソンの直観による認識である。これがベルグソンの直観哲学の神髄である。
三、 宇宙のはじめ
ベルグソンは宇宙の始まりは無限に湧き出る「いのち」、即ち創造の泉であり、根源的に「いのち」の爆発である。そして、すべての物質は「いのち」の爆発に随伴・派生するものである。物理的世界では物質は生成され、崩壊する運動を繰り返す。ビッグバンでは観測可能な素粒子を捉えるが、宇宙には観測不可能なダークマター・ダークエネルギーが存在する。これが「いのち」担い手になっている。
宇宙は持続する活動が存在し、創造と成長を無限に続けている。進化する生命はすべての物質に結びつけられるが、これは「いのち」の超意識であって純粋に創造的活動を続けている。「いのち」は一つの運動であり、物質性とは逆の運動。この二つの流れは有機的に共存する。我々は時間空間における外的な部分として見てしまうが、これは単一の躍動がいくつもの世代を貫き、全系列の生物をして物質の上を流れる唯一巨大な波を構成している。これは、科学のような分析型の知性ではなく精神で見る、行動能力に内在している直観能力で見る(直観の認識)と、すべての運動が見えてくる。
四、 「いのち」のはじめと成長・分裂
生命の過程で、エネルギーは先ず蓄えられ、まだ固まらない物質を貫いて流れる線上で消費される。生命は必ずしも一つの有機体に集中した形を取らない。また、生命を持った有機体は成長するが、ある時点を越えると増大よりも分裂する。分裂した要素を分業という絆で統一されて、成長を続ける。
生命は心理的秩序に属し物理的なものではない。心理的なものの本質は相互に浸透し合う錯綜した多数の項を内包している。個体性と連合の二重の方向における生命の進化は「いのち」の本質に根ざしている。
五、 動き続ける生命の躍動と創造的進化
生命の根源的躍動は、成体となった有機体を介して、一世代の胚から次の世代の胚へと移って行き、さらに新しい有機体を作って行く。生命の躍動が種々の異なる進化系統に分岐する。これが創造であり進化である。この進化の歩みは、生命の物質に働き掛ける一つの傾向によって行われるが、これは偶然性を帯びている。
六、 動物と植物の分岐
動物は意識的な行動と感性により植物とは異なった成長をしてきた。これに対し植物は超スローな動きと眠ったような意識であったので動物とは分岐してしまった。地中の微生物の窒素固定、植物の炭素の有機化、その消費者たる動物、これら三者は生命に内包していたものが分裂したものである。動物の感覚は運動するように出来ている。餌を探す、危険を回避するといった行動のために神経は働き、進路を選択する。この最も進化したのが人類である。
植物的麻痺、本能、そして知性、この三つが生命的衝動の中で分岐して生まれた要素。これは純粋な状態でなく、お互いに浸透し合っている。知性も本能も別なものでなく一つの傾向を示しているに過ぎない。
七、 人間についての「いのち」
人間の意識の流れが、物質の中に浸透し、ここに直観と知性を生んだ。そして知性は物質に適合し、直観は生命に適合した。「いのち」は生物の進化の末に人間が誕生した。意識は直観であるべきであつたが、知性が制約し物質の運動をも律してきた。直観は精神そのものであり、「いのち」そのものである。直観の内に身を置いて、そこから知性が進んだ時に,はじめて精神的生活の統一を認識する。
「いのち」の根源は意識、むしろ超意識である。哲学はこの精神の生活と身体の生活との関係を明らかにする。かくして魂の存在がある。「いのち」の波は潮となって流れるが、この潮が意識である。魂は人類の身体を通して流れゆく「いのち」の大河が分岐して生じた潮である。意識は物質の上に身を置き自己を適応させる。これが知性であり人間である。人間の脳はこの意識を知性により相互依存の形で結びつけ活動を組み込んで行くが、知性は意識の自由な行動による創造を見逃してしまう。この限界や困難は直観により解決されるものである。
○おわりに
以上の概略要旨でベルグソン直観哲学による「いのちの理論」の講話を終わったが、この著「創造的進化」が出版された1907(明治40年)には、物理学で光の速度の普遍性を説明したアインシュタインの特殊相対性理論の発表と相俟って、世界の思想界に異常な反響を呼び起こした。
ベルグソンは科学と共に歩む哲学こそ真の哲学と考えていた。「いのちの理論」は、その後に発表されたビッグンバンによる宇宙膨張論を先取りし、原子とは異なるダークマターをエネルギーの広がりのある微粒子に結びつけて説明し、さらに生命科学の進展、DNAの発見、脳構造の解明が進んでいる中で、生命を直観哲学で考察された理論は、実に素晴らしいものであると野口講師は絶賛、熱弁を奮って講話、会員諸氏を感動させた。
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