日中国交回復直前の訪中記録より

                               團野 廣一氏 

 

 もう35年も前の話である。

 日中国交回復の直前、1972年8月に、三菱三首脳すなわち三菱銀行・田實渉頭取、三菱重工・古賀繁一社長と三菱商事・藤野忠次郎社長が、田中首相訪中の露払いミッションとして中国に招かれた。 私も3人の随員の一人として参加した。 16日朝香港・九竜駅から終点駅羅湖まで8駅を普通列車で移動する。 細い鉄橋を徒歩で渡って入境通関、中国側の深?駅から再び列車に約45分乗って広州駅に到着した。 そして、広州空港から中国民航機(英国製バイカウント48人乗り)で北京へ向かう。ところが天候不良とやらで河南省鄭州に臨時着陸、空港で一時間以上待ったが飛行機は飛ばず、結局「中洲館」というホテルに投宿することとなった。 時間は23時であったが、室内温度32度C冷房なし、蚊帳付きベッドで寝苦しい一夜を過ごした。 翌朝8時31分鄭州空港発、10時12分にようやく北京に辿りついた。 空港では劉希文・李西夫・李長清・陳樹梓・呉曙東の各氏はじめ10数名の出迎えを受け、宿所の北京飯店に入った。


 その日の午後には早速、中国国際貿易促進委員会(国貿促)劉希文責任者以下との第1回会談がはじまり、それから24日までの1週間、国貿促との3回の会談の他、中日友好協会・廖承志会長・孫平化常務理事、機械進出口総公司・李長清・程継賢両副総?理、国務院対外貿易部・李強副部長などとの会談がもたれた。 中国側からは「平等互恵」「有無相通」「政経不分離」の原則や「自力更生と貿易拡大両立」の方針等について説明があり、日本の政治、日本経済の現状や産業地図、三菱グループと他グループの活動、軍需生産の実情等々について質問が繰り返された。


 その結果、重工・商事がそれぞれ友好企業・友好商社として認定されることが決定された。 その合間を縫って北京石油工厂・四季青人民公社・首都体育館・万里の長城・十三陵、故宮博物館、天壇公園、北京動物園等の参観(見学)が組み込まれた。 しかし何と言っても最大の圧巻は、周恩来総理との会談であった。 周恩来総理は夜に強いとは聞いていたが、会談の連絡が来たのが北京滞在予定の最終日、8月23日の22時過ぎ、急遽身支度を整え、人民大会堂へ向かった。


我々随員は廊下のソファーに座って待機することとしたが、驚いたことに総理ご自身が部屋から出て来られ、我々一人ひとりに握手を求めた上、「あなた方こそ将来中日の架け橋になる方々と期待している。どうぞお入り願いたい。」と招き入れられた。 我々随員も周総理のお話を直々に聞くこととなったのである。 会談は深夜3時間近くに及んだ。(正確には22時42分から午前1時32分までの2時間50分) その際に私がとったメモにより会談内容の一部を再現してみる。


 冒頭、周総理は「日本の指導者、吉田―岸―佐藤の各氏が中国を敵視してきた流れの中で、田中首相は中日正常化を言明された。 その実現に協力した三菱の首脳を招いた判断は正しかった」との考え方を開陳、「田中首相と日本国民の中日正常化の願望に期待する」として、「国交回復後の三菱グループの積極的な対中協力」を要請された。 そのあと周総理が勉強されてきたことが間違っていないかを確かめるような口調で、日本経済の現状、日本の六大企業グループ、三菱グループの位置、経団連の活動などについて説明を求められた。 又、田實会長には金融システム、預貯金の状況、外貨準備高等、藤野社長には貿易統計、三菱グループの輸出入の占拠率、農業政策と企業振興策等、そして古賀社長には工業生産とくに造船とプラント輸出、防衛生産と米国の武器押しつけ、公害問題への対応等の質問があった。

  一通りの質疑応答を終わって、周総理はおもむろに彼自身の世界情勢の分析について語り、とくに中・米、中・日の関係、歴史認識に触れ、中日関係正常化の希望を述べられた。 世界の情勢分析では、「ソ連(当時)はスターリンが1952年逝去の直前に経済総括の論文を出したが、後継指導者達は修正資本主義に走り、西独・英国・イタリア・カナダそれに最近では米国にまで擦り寄って媚を売っている。このような無定見な修正主義は決して長続きせず、ソ連はやがて自ら滅びるであろう。」と断じ、「EC(当時)は、50年代・60年代の米ソ対立時代のあと70年代に入ると第3勢力として、人口・生産力で米国を上回るかたちでまとまった。今後も協調主義によってまとまり、着実に米国に対峙するバランス・パワーになるであろう。」 「昨年、キッシンジャーが訪中したが、彼によるとニクソンは“戦後26年にして米国の威信がこんなに失墜するとは予想もしなかった”と言ったそうだ。これは本音であろう。」


「米国は戦後対外資本投下、軍事出動(出兵)をほしいままにして来たが、結果は経済危機というかたちに帰結した。」 「ニクソンは“第4の勢力が工業力で急成長した日本、第5の国が潜在力の国=中国である。これからは、米国・EC・ソ連・日本・中国の5ヶ国の話合いで世界が動くことになろう”と分析したそうだ。私はこの分析は正しいと思う。中国は米国の敵視政策にも拘らず存在し続けてきた。
  これからも中国は米国と対抗することにもなろう」これらが周総理の世界情勢に関する見方であった。 周総理は続ける。 「ところで米国のニクソン・ドクトリンはレアード氏の日本における演説に要約されている。@軍備を順次日本他各国に肩代わりさせる。 米国製武器を買わせる。A条約により各国との連携強化を図る。 B米国の国益を優先する。それも平等互恵の利益ではなく、米国のみの収奪の利益である。これらを前提として話合いしたいと言われても困惑する。 米国は、言いたいことをはっきり言う点は面白いが、言うことが身勝手で矛盾している。話合いに応じるのは難しい。」 そして日本との関係である。 周総理は「中国は欧州諸国から植民地化を目指して攻め込まれた。日本からも日清戦争・満州事変・日華事変そして第二次大戦と一方的に侵攻され続けた。 
 

  当時、中国政府は腐敗していたから容易に攻め落とせるとみられていたのであろう。 戦争の時代と言われるように、中国にとってはまさに多難の百年であった。 日本の少数の軍指導部のために多くの中国人民、アジアの人々が犠牲になった。しかし、日本の多くの一般国民も同じく被害者であった。 中国の人民も戦争によって目覚めたが、日本国民も敗戦によって目を覚ましたと思われる。この際、中日正常化を政治的に解決したい。」と言明されたのである。


 これが所謂「二分論」といわれる周総理の考え方、すなわちごく少数の軍国主義者と大多数の日本国民を区別する考え方であり、それが示唆されたものであった。 中国では当時賠償を伴わない国交正常化に反対する動きがあったが、周総理は相当の時間と費用をかけて全人代委員を説得「小異を残して大同につこう」と二分論を押し通されたと聴く。 わが国の指導者が小異にこだわるだけでなく、大同も失うことにならなければよいがと危惧する。


 この会談の終わった24日、一行は上海に招かれ、干長令・国貿促上海分会責任者との会談、上海工業展覧会・上海起床厂(工作機械工場)・上海少年宮・馬橋人民公社等の参観を消化して広州―香港経由で帰国した。 三首脳は帰国後直ちに田中首相・大平外相・中曽根通産相に対して訪中結果を報告して大変喜ばれたと聴く。


 35年前の速記メモを読み返して、改めて当時の周恩来総理の先見の明を憶う。 今や米国はかっての栄光は失ったというものの世界に覇を唱えており、EUは27ヶ国が協調路線でまとまりを追求しつつある。ソ連は彼の予見どおり崩壊した。中国は国内に所得格差・環境破壊、農業問題等の課題を抱えながらも高成長経済を持続してその影響力をアジア、否世界に対して誇示している。
 ところが第5極のわが国は、経済的には安定しているものの、対米一辺倒で世界戦略を欠くやに見える。昨今の日中関係のギクシャクした状況は両国関係者の歴史に関する理解と認識にズレがあるところから生起している。


 「中国革命の父」として尊敬されている孫文氏は亡くなる4ケ月前、1924年11月に神戸で「日本は西洋覇道の番犬とならず、東洋王道の守り手になってほしい。」と演説したと聴く。今それを考えさせられる文言として思い起こす。 わが国に、一日も早く、世界観と世界戦略を持つリーダーが現れることを切に望みたい。

              以上

 

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