その1   その2  
   
  私のマッターホルン                   N.U
 

川越生まれの川越育ち、。
大変活動的な一主婦。

 

 私は22才の時、友に連れられイヤイヤながら2〜3回新潟にスキーに行き30才位から子供がいないので続けていました。その後子供が出来、東洋大学の体育教授の「親子スキースクール」に20年くらい参加したが、自然散会となったので、中高年スキーの会に入りました。しかしまだ一度もケガをしたことはありませんでした。昨年の春、スイスのマッターホルンに行く話が持ち上がりました。

 男性4人女性2人あと1人参加の男性、安いツアーなのでイギリスでトランジット5時間待って、スイスのジュネーブへ、それから4時間電車に乗り、ツエルマットに着きました。そこは環境保護の為、交通網は電気自動車と馬車のみ、約24時間掛かりました。1人で参加の男性に「奥さんは?」と聞いたら「アルツハイマーで70才から3年入院しているそうです。「原因は?」彼いわく「貴女のようにいろいろな事に興味を持たないから」・・・・。私は思わず苦笑、私は好奇心の魂だから・・・・。

 朝8時半ごろホテルを出発、地下鉄とケーブルカーで頂上に着きました。そこは
標高3880m、空気が薄く呼吸もするのが大変、でも友が氷砂糖を持って来て滑るとき1つづつくれました。頂上から横に横に滑るので夕方まで帰れません。ここは天国かと思うほど絶景で。青い空に白い雪、3000m位になるとダイアモンドダスト。それは黄金色にキラキラ輝き絵にも言われずきれいでおまけにマッターホルンが「こんにちは」。

 私は来る前、山岳写真家の白川義員さんのビデオを見ていたので山の三角の所に朝日が昇る風景を是非見たいと翌朝早起きして見に行きましたが、なんと昇ったのは8時近くでした。ホテルでは夕食の時、入り口で「北国の春」や「上を向いて歩こう」をエレクトーンで演奏してくれました。食事中マダムが各テーブルに挨拶にきて私たちの仲間の1人が「このホテルのホームドクターに似ている」と言うので翌日の夕食の時、私が「ねえ、マダム、私たちこの人にニックネーム付けたの、ツエルマットのドクターと言うの」。彼女(マダム)は私のまずい英語を喜んでくれました。

 4日間滑ってみんなで話し合って半日早く発ち、ジュネーブを見学しようということになりました。そこで赤十字国際本部、欧州国連本部、緒方貞子さんの勤務していた難民高等弁務官事務所、特に印象に残ったのは公園にあった3本足の大きな椅子の像で、これは地雷で足を失った人々を表しているのだそうです。世界は広い、そして戦争をしている国もあれば飢えている国もある。皆がそこそこの平和を保てるよう願いたいものである。

 

  
 
 
  俳句は心の在りか示すバロメーター         松尾 哲
 

まつお てつ

福岡県大牟田市生まれ
1978年島根大卒業。マルホ株式会社の
営業、製造、研究所、開発を経て、
現在、化粧品会社(株)リスブランの
醫化部長

 

 今から三十年近くも前の話である。仙台発7時50分の秋田行きの列車は、プロパー列車と呼ばれていた。医薬品メーカの営業諸氏が大挙して乗り込み、秋田の病院市場を目指す。列車は東北本線から北上線に入り、奥羽山系を抜けて進む。東北の長い冬の陰鬱な雰囲気は私の胸中でもあった。

 私は医薬品メーカの研究職を希望していたのだが、数年間は営業をするようにとの指示を受けていた。営業自体は嫌いではなく、出張の旅はむしろ大好きであったが、1時間待って数分程しか医師との面談時間がないことに、人生の浪費のようなものを感じていた。列車は雪深く薄暗い山中を喘ぎながら登っていた。そして列車がとある小さなカーブにさしかかった時、ふと窓の外を見ると、雪をかぶった熊笹と線路との間に、わずかな黒い土が覗いており、そのじめじめとした場所に咲く、ひときわ明るい蕗の薹の群生が目に飛び込んできた。

〜 恵まれぬ場所ひときわ明るく蕗の薹  〜 愚風

 思わず句が出来た。私の胸中に明るい希望の光が射したように思えた。最初の訪問地である横手市の病院を訪問し、懇意の皮膚科部長にこの句を披露した。先生はニコニコ笑って聞いておられた。その時私は思った。自然との間に心が通じるということは、人と人との間に心が通じることとまったく同じことだと。

 その後8年を経て、会社の多くの先輩方の支援を受け、念願の研究職に付く事ができた。研究所には12年間いたが、この間、骨代謝関連の業務で、明海大の久米川研に1年間在籍させていただいたことは人生の僥倖であった。

 久米川研では、研究以外のことにも大きなエネルギーを放出していた。花見、川釣り、バーベキュー、花火見物。そのようなイベントを研究室備え付けの自由帳に俳句で記録するうち、久米川先生に俳句の手ほどきをすることになった。

〜 ポケベルが初孫知らす葉月の夜  〜   久米川 愚骨

 この句は当時、私が投句していた俳句誌「青門」の主催、高木青二郎先生(マルホ株式会社名誉会長)に指導を受けていた社内句会で、参加者全員が秀句として選んだ出来映えであった。


 更に数年後には、不思議なもので、営業支援の業務で病院を訪問し、先生方に新製品の紹介をすることが私の大きな仕事になっていた。ある病院の薬局を訪問する際、営業からの連絡によると、薬局長先生ご自身からのクレーム(何か忘れたが)を解決することが話を進める必須条件とのこと。予約時間より早めに到着した私は病院の周囲を散策したのであるが、浜風に観る人もなく散っている桜の花が美しかった。時間がきて私達は薬局長先生に面会したのであるが、挨拶代わりに病院周囲の美しい風景の話から入った。クレームの件は出ないまま新薬紹介の業務は終了した。


 今も病院や薬局を訪問し、初対面の先生方にお会いする機会が多いが、その施設の玄関をくぐる前に、時間があれば周囲を散策し、自然から流れ込む何かを感じ取れる自分かどうか、それを言葉として表現出来るかということを問うてみる。私にとって俳句は心の在りかを示すバロメーターとなっている。

〜 故郷の父は老いけり蝉時雨   〜  愚風