| このコーナーは各界でご活躍の方々にお願いしております。 |
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| その1 | 美しい骨が美しい女性を作ります 〜伊東 昌子〜 |
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| 久米川先生の 「BONEに魅せられて」というタイトルを拝見したとき、思わずドキッとしました。それは私自身もBONEに魅せられて骨粗鬆症の研究を続けている一人であるからです。私も骨組織のマクロの世界を探求しています。骨の脆弱性(ぜいじゃくせい)には骨量(骨密度)が強く関与していると言われますが、それほど骨量が低くなくても骨折を起こす患者さんもいれば、顕著な低骨量であっても骨折を起こさない患者さんもいて、骨量のみで正確な骨折の予測を行うことは必ずしも容易ではありません。そして骨の脆弱性には骨の構造が関係していることが分かってきました。骨には、外には堅い殻のような皮質骨があり、それに守られたように小さな柱状の梁(骨梁)が組合わさってできた海綿骨があります。外からの荷重に適応するように皮質骨と海綿骨の構造が変化してきますが、その変化は単純でありながら合理的で美しいものです。神様は私達のからだを精巧に無駄なくお作りになられた、といつも感心しています。脊椎椎体は、ヒトが四つ足動物から直立歩行を行うようになってから、うまくバランスが取れるようにゆるやかに前後にカーブを描くかたちに作り上げられてきました。骨梁構造の緻密さは、美しささえ感じられる構造です。ところが、骨粗鬆症では 骨梁の表面が吸収されて細くなり、やがてその部位に断裂が生じてくると骨折を起こしやすくなり、骨の形態は変化します。すると美しかった脊椎のカーブは消失し背中は後方に突出するため、外見上背中が丸くなり身長は低くなるなど容姿は変化してきます。容姿が変化してくると、ついつい外出も少なくなり、生活に楽しみが少なくなってきます。しっかりとした丈夫な骨は美しく、美しい骨であってこそ、美しい姿を保つことができるのです。いつまでも元気で若々しい骨で、美しく歳を重ねていきたいものです。 |
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伊東昌子(いとうまさこ) |
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| その2 | 竹馬の友アルカリフォスファターゼ 〜川島博行〜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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私は、今のところきわめて健康で、瞬発力の著しい低下を除けば、運動能力もまずまずの状態を維持している。毎年行われる健康診断でも特に異常はないが、ひとつだけいわゆる正常範囲を超える項目がある。 そのようなわけでALPの高値は、私の運動量と健康状態のバロメーターであると半ば信じてきたのだが、現在の職場に移ってから、少し異変が起きている。私のALP値の正常値からのずれが減少する傾向が認められ、昨年は初めて*印がつかなかったのである(ただし、骨量は成年の平均値を維持している)。測定法が変わった旨の記載があったので、そのためである可能性も残るが、私は、職場に隣接してグラウンドがないため、激しい運動をするのが週末のみになってしまったためであろうと思っている。無論、単に老化が進んだだけという見方もできる。いずれかを確認するための計画も立てているのだが、仕事および時間との競争なので実現できるかどうか自信がない。ともかく、ALPと私とのこのような付き合いは、おそらく私の少年期まで遡ることになり、現在も仕事を離れた時にその密度が特に濃くなるようなのである。 |
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川島博行 (かわしまひろゆき) 1968年3月東京大学大学院薬学系研究科修士課程終了 帝人株式会社生物医学研究所研究員、 UCLA医学部腎臓病学科準教授、 自治医科大学医学部薬理学助教授、 山之内製薬株式会社分子医学研究所所長(技監)を経て1996年から新潟大学歯学部教授。 2001年大学院医歯学総合研究科に配置換え。 運動骨格系組織の分化および形成のメカニズムの解明と新しい治療法への応用を夢見ている。 |
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| 尊厳死に関して | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
| その3 | 不思議な心の安心感 〜生前発効の遺言書を書き上げて〜 〜湖崎 武敬〜 |
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| もう10年も前の話です。当時86才できわめて口も達者、体も元気であった母が何かの話の折に「武敬よ、私が死ぬ時に鼻の中に管入れたりするような要らん事せずに自然に死なしてくれよ」と言い出しました。「お袋の気持ちはわからんではないが.一旦スパゲッティ症候群(死期が迫った患者に、人工呼吸器などの管をスパゲッティようにいくつも取り付けて延命を図ること)になったらそれは無理や。それ外したら死ぬ時に立ち会ってくれるお医者さんが殺人罪になるわ」とまともに検討する気が無いから、冷たい返事を返しました。 なんとそれから2,3日後の新聞に“尊厳死”のことが紹介されている記事を見つけました。私の人生、今まで非常に幸運なというか、困った事があって“何かせなあかんな”と思っていると必ずそれに関する解答の参考になるような事が起きたり、情報として入って来たりしたのです。早速資料を取り寄せ母の希望に答えられるかどうかの検討しました。 その結果わかったことは @ 安らかに、人間らしく死ぬ権利(尊厳死の自己決定権)は書類にして残しておけば、お医者様に迷惑をかけずに希望通りに上手く行きそうだ。 A そのために“尊厳死の宣言書”(リビング・ウイル、生前発効の遺言書とも言っている)を書かねばならないが、雛型が有って署名押印だけで面倒なくすみそうだ。 B 年会費がいるが、これを納入することにより意志の継続性の証明になる。 という事です。 これを母に伝えた所、もうすぐに入会手続きをせよとの話でした。「お前も一緒に入会せよと」の命令で家内に相談しました。1人で入会すれば会費は3,000円、夫婦の場合は4、000円とか。勿論私たち夫婦はケチですから一緒に入会しました。その折母は、「私は歯医者の嫁として一生を終わる事になるが(歯科医であった父は既に鬼籍に入っていた)、考えてみると世間様に何のお返しもしていない。この際一緒に私の死体を献体したいから手続きもいっしょにしてくれ」とのこと。「了解それは良い事だ。偉大な事だ。誰にでもできる事ではない」と大いに褒めたのが災いして、私も付きあいで香川医大白菊会に入会する羽目になりました。 さっそく日本尊厳死協会に“1)私の傷病が、今の医学では治せない状態になり、死期がせまったときは、いたずらに死期を引き延ばす処置は、いっさいお断りします。2)ただし、私の苦痛を和らげるための医療は、最大限にお願いします。3)数ヶ月以上、私の意識が回復せず植物状態に陥って、回復の望みが無い時、一切の生命維持処置をやめてください。以上、私の宣言に従ってくださったとき、すべての責任はこの私自身にあります(リビング・ウイルより)“の書面を送り、日ならずして原本の登録・保管を示すコピーと会員証を受け取り、白菊会の会員証も手にしたとき、植物人間になる前に義務を果たしたという安心感と人生最後のすべての用意が終わったという安心感で、充実した人生の責任を果たしたような気がしました。 今、私はボランティアの一つとして尊厳死運動の輪を広げる事のお手伝いをしていますが、会員登録を終えたほとんどの方がこの心の安心感というか、義務感を果たした喜びのような気持ちを報告しています。 ただこの宣言書は遺言状や臓器移植の承諾書と異なり法律的に認められていないので(患者さんの自己決定権に関してはこれを認める裁判例はたくさんあります)、末期を看取る医師の自由裁量性と家族の尊厳死を認めてあげたいという熱意にすがる他はありません。でも協会の追跡調査により96%以上の人に尊厳死の意志が認められているそうです。母は現在96歳になり口は相変わらず達者ですが、寄る年には勝てず寝たきりになっています。主治医には、しっかり母の意思を説明しました。先日カルテの最初のページに、渡してある母の“リビング・ウイル”のコピーを見つけ嬉しくなりました。母の意思、私たち夫婦の意思はしっかりと家族には伝えているつもりですが私の尊厳死が議論される時は、自分の意識が無い時期なのでいささか不安は残ります。 川崎市の病院で起きたいわゆる「安楽死事件」、裁判に際し患者さんの生前に自己決定された“リビング・ウイル”が有るか、無いかで尊厳死と安楽死に分かれてきます。難しい問題ですね。現在日本尊厳死協会の会員数は10万人を超えています。すべての人が必ず迎へなければならない“死”の問題に一度真正面から向いあってみませんか。 |
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湖崎武敬(こざきたけよし) 香川県出身。 大阪大学歯学部卒業後、口腔外科学教室入局、大阪大学歯学部助手、歯学博取得。 その後、郷里の高松市で湖崎歯科医院開業。現在同歯科医院理事長。 大阪大学、岡山大学非常勤講師など歴任し、昭和63年(社)香川県歯科医師会会長。 現在、香川県・高松市歯科医師会顧問、日本ボーイスカウト香川連盟副理事長、民事調停委員、日本尊厳死協会理事、四国支部支部長として活躍。 |
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| その4 | 続 「動 物 と 私」 (註1)〜鈴木 不二男〜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
| 。小学生の頃、「三郎」と名付けた犬を飼っていた。「三郎」は家族の一員のように当人(犬)も思っていて自分が犬だとは考えていなかったと思う。ただし、「三郎」は家の中に上がれない規則になっていたので、夏など、我々が食事をしている間中、踏石の上にきちんと坐って縁側に首を載せてじっと見詰めていたいじらしい姿が今でも瞼に焼き付いている。 大学では蛋白質化学の赤堀四郎先生の研究室に入れて頂き、その後、代謝調節の須田正己先生の研究室(微生物病研究所)の門を叩いた。フルブライト委員会(註 3)から往復旅費を頂く幸運に恵まれ、バークレーのカリフォルニア大学生化学部に留学していた時には、ビタミンB12補酵素を発見されたH. A. Barker教授の研究室で、嫌気性細菌を培養してビタミンB12補酵素が関与する酵素(グルタミン酸ムターゼ)を抽出し、その作用機構について研究した。この間、ニューヨーク科学アカデミーの「ビタミンB12補酵素に関するシンポジウム」に参加したり、アトランティックシティ(ニュージャージー)で開催された「フェデレーション・ミーティング」で講演を行う機会に恵まれた。帰国後は徐々に国力も上昇してきたので実験材料を哺乳類に切り替えて、ラットの肝臓や脂肪細胞を用いて研究を進めたが、その後は歯学部に所属していたので、何とかして歯や骨のような硬い組織を相手にして興味深い研究ができないものかと暗中模索していた。 ところで、「天災は忘れられたる頃来る」という名言を残した物理学者であり、かつ夏目漱石の弟子でもあった寺田寅彦の随筆に「柿の種」(岩波文庫、1933 [註 4])がある。その中に「眼はいつでも閉じることができるのに耳は自分では閉じることができない。なぜだろう」とか「鳥や魚のように眼が頭の両側についていたら、この世界はどのように見えるだろう」などという一節がある。このように寺田博士は、科学の原点は日常の不思議にあると信じ、日常に見られる何げない現象を物理学的な視点から深く追究し続けられたと言える。 寺田博士と筆者を並べるのは、まことに恐縮ではあるが、実は筆者も1973年頃に「骨や歯のような硬い組織は、どのようにしてできるのだろうか?」、「耳や鼻はどうして硬くならないのだろうか?」などという疑問を持ったのである。おそらく一般の人々は、このようなことは当然のことであり、何ら不思議にも思われないだろうし、たとえ少しは疑問に思われたとしても深くは追究されないに違いないしかし、筆者は上記の問題に深入りしてしまって30年近くもこの問題を追究することになった。そこで、筆者らは、1973年以来、ウサギの肋軟骨細胞やウシ胎仔軟骨、ヌードマウスなどを駆使して骨のような硬い組織がどのようにしてできるかという謎を生化学的に解明することに全力を注いだ。1960-70年代の生化学と云えば、酵素化学やアミノ酸代謝の研究が全盛の時代であり、生化学者が細胞培養を行うなどということは、極めて希であった。それにも拘らず、従来の手慣れた方法や考え方を一旦、捨てて、敢えてラットやウサギの肋軟骨細胞の分離・培養に挑戦するというハイリスク・ストラテジーに賭けたのである。その結果、副産物として「軟骨代謝」という学際的な新しい研究分野を開拓することができた。 この間、1982年にはナイロビ(ケニヤ)で開かれた「ソマトメジン/インスリン様成長因子に関する国際シンポジウム」に招待されたので、会議の後、キリマンジャロの近くのアンボセリ国立公園を訪れ、野生の象、ライオン、キリン、サイ、インパラ、ダチョウなど自然の生態を垣間見ることができた。そのほか、1963年にフロリダでハイウエイを横断中のアリゲーターに遭遇したことや、1982年にオーストラリアのモナッシュ大学から招待を受けてセミナーに伺った際に案内された自然動物園の遊歩道ですれ違った筆者の背丈と同じ位の大きさのエミュも忘れられない。
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鈴木不二男(すずきふじお) 1960年、大阪大学大学院理学研究科修了、理学博士。 大阪大学助手を経て、フルブライト研究員としてカリフォルニア大学に留学。 ニューヨーク州立大学医学部客員教授、1977年大阪大学歯学部教授、その間、附属図書館生命科学分館長。 研究では1970年代初頭より軟骨代謝に関する新たな研究分野の開拓を試み、2001年「第1回国際軟骨代謝学会」において、この分野の三名の先駆者の一人として顕彰された。 |
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| その5 | 四国霊場巡拝自転車の旅〜溝口 幸二〜 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
昨年秋、大学時代の同級生と二人で四国霊場巡拝の自転車旅行をした。3年前からの計画であったが、なかなか二人の都合が合わず、延び延びになっており、「どうしても70才になる前に行きたい」という友人の熱望に負けて、昨年10月いよいよ実行に移すことになった次第である。 高松の友人宅を起点に、阿波一番霊山寺から讃岐八十八番大窪寺まで、当時国体開催中の高知県を除き、四国三県を16日かけて約800キロ走行、無事75ヶ寺巡拝を終えた。 とは云え、大抵のお寺は山の中腹にあり、そこに行くためには、上っては下り、下りては上る、の繰り返しで、全行程の半分以上は自転車を押して歩くだけだった。自転車の下りは素晴らしく快適だが、上りの辛さは想像以上で、平面地図だけで立てた計画の甘さは、たった一日走っただけで思い知らされた。 しかし、朝7時に起床、荷造り、朝食を済まして出発、一日数ヶ寺を参拝して午後三時過ぎにはヘトヘトになって次の宿にたどり着き、洗濯、タ飯を済ませて床に就くと云う毎日であったが、不思議に「もういやだ、止めたい」と云う気持ちにならなかった。 四国観光旅行と違い、巡礼の旅はお四国の旅、弘法大師と同行二人の旅と云われるが、確かに自分一人だったら、これほど頑張れないだろうと思えることも度々あったし、多くの方達から、思いもかけない温かいお心遣いも戴いた。
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溝口幸二(みぞぐちこうじ) 大阪大学歯学部出身。 |
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